映画と本と

フリーライターの若林理央です。ダ・ヴィンチニュースや好書好日で執筆中。小説や映画について語るブログです。エッセイ→note.mu/wakario Twitter→https://twitter.com/momojaponaise

若林理央 ポートフォリオ【これまでの執筆記事】

 

都内在住のフリーライター 若林理央です。

 

取材記事(漫画家・在留外国人・企業取材中心)、ブックレビュー、書評、エッセイを執筆。

編集業務にも携わっています。

 

【執筆媒体】

WEB媒体 好書好日(朝日新聞社)/ダ・ヴィンチニュース(KADOKAWA)/70seeds/LabBase(POL)他

紙媒体 週刊朝日朝日新聞社)/週刊SPA!(扶桑社)/月刊留学生(株式会社大悟)

(月刊留学生は「梶川理央」名義)

 

お仕事のお問い合わせは

rio.wakabayashi429@gmail.com

もしくはツイッターのDMからお願いいたします。

料金表

 

経歴及び過去の執筆記事は下記ご参照ください。

 

 

 

 <ライター経歴>

2012年~紙媒体でライターとして取材記事を中心に執筆活動を開始。

現在は紙媒体/Web媒体問わず執筆し、企画や編集業務にも携わる。

兼業で外国人に日本語を教える日本語教師をしているため、在留外国人に詳しい。

 

ポートフォリオ

週刊朝日

(執筆)

週刊朝日2020.3.20号に書評掲載。現在AERA.dotで読めます。

dot.asahi.com

 

朝日新聞社 好書好日|Good Life With Books

(企画・取材・執筆)

 

book.asahi.com

 

book.asahi.com

book.asahi.com

book.asahi.com

KADOKAWA ダ・ヴィンチニュース | 読みたい本がここにある

(ブックレビュー執筆)

 

ddnavi.com

 

ddnavi.com

 

ddnavi.com


「次の70年になにを残す?」Webメディア 70seeds

 (企画・取材・執筆・撮影)

www.70seeds.jp

 

(企画・取材・執筆・撮影)

www.70seeds.jp

 フラスコ飯店

(映画評執筆)

frasco-htn.com

理系就活メディア LabBase

※編集業務にも携わっております。

(企画・取材・執筆)

compass.labbase.jp

 

compass.labbase.jp

 

 

(執筆)

 

compass.labbase.jp

 

compass.labbase.jp

 

compass.labbase.jp

恋に迷う女性のためのメディア AM

 (企画・取材・執筆・撮影)

 

am-our.com

 

おもしろ系メディア CRAZY STUDY

(企画・取材・執筆)

 

crazystudy.info


・最新の日本を紹介するマガジン 月刊留学生(紙媒体)

 (すべて企画・取材・執筆)

 

※掲載許可もらっています。

 

韓国文化院 院長インタビュー

「生まれ変わった韓国文化院」

 
ハリウッド大学院大学 教授・助教授インタビュー
ハリウッド大学院大学の魅力とは?」
 
行政書士 インタビュー
「日本で行政書士として活躍中の元留学生」

 

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※メディア以外の執筆

 エッセイ

note.mu

 

書評

www.wakariowriter.work

 

 

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<その他経歴> 

大阪生まれ大阪育ち。都内(23区内)在住。

神戸女学院大学文学部卒業。

幼少期に両親の離婚・母の再婚、阪神大震災場面緘黙症などを経験し、その経験をもとに10代からエッセイや小説の執筆をはじめる。

学生時代はフランス文学を専攻しフランスに留学。卒業論文では日本文学(谷崎潤一郎)とフランス文学(ジッド)を比較。

ご当地アイドルだったこともある。

 

大学卒業後、家電メーカーで役員秘書として勤務した後上京し、結婚するが二年で離婚。

日本語教師イベントコンパニオン、ナレーター/MCをしながら2013年よりライターとしても活動を開始。

2018年、シェアハウスで知り合った5歳年下の現夫と再婚。

現在はライターと日本語教師をしている。

趣味は読書、熊の生態研究、ミュージカル鑑賞など。

 

 

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堕落する兄、やさしすぎる弟が招いた家族の悲劇『若者のすべて』(1960)

イタリア敗戦後の暗さを残す『若者のすべて』は、ルキノ・ヴィスコンティの代表的な監督作品の一つだ。主演は社会現象になる直前のアラン・ドロン

 

働き手の父が既にいないことから「おそ松さん」のようなニートにもなれなかった若い5人兄弟と、彼らを溺愛しその将来に期待をかける母ちゃん、ファム・ファタ―ル(運命の女)と言うにはあまりにも理不尽な目に遭うヒロインを軸に物語が進む。

 

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(C)Marceau-Cocinor

 

舞台はミラノだが、私たちが観光地として知っているおしゃれなミラノが見られる場面はほんの少ししかない。

 

最初は同じような性格に見えた5人兄弟は、物語が進むにつれて個性が表れていく。

私の独断と偏見で、母ちゃんと5人兄弟で「クズofクズ」をつけ、誰がこの物語を悲劇にしたのか考えてみようと思う。

 

長男に養ってもらう気満々で、息子たちの幸せを願いミラノに来る5人兄弟の母ちゃんロザリア。

母や弟たちより前にミラノにいて、家族に報告しないまま彼女と婚約パーティーを開いていた元ボクサーの長男ヴィンツェンツォ。(恐らく20代前半から半ば)

ボクシングで才能を見込まれるが、娼婦に夢中になり堕落する次男シモーネ。(20代前半)

心が清らかすぎるがゆえに、自ら望んで次兄に運命を狂わされる三男ロッコ。(主役で演じるのはアラン・ドロン)(20歳前後)

勤勉で、後半ではアルファロメオの技術者となり、現実的に物事を見つめられる四男チーロ。(10代後半)

まだ子供で、兄たちの愚かなふるまいを「愚か」とも感じられない五男ルーカ。(10歳くらい)

 

この中にクズが四人います!

 

 

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選考外① 無垢であるがゆえに

 

さっそく審査員(私)の選考からもれたのは、末っ子の五男ルーカである。

まだ小学校に通う年齢のように見受けられるのに、貧しさから自転車をこいで食料配達のバイトをし、途中で兄に会いに行ったりもしている。

その健気さは母や兄たちにも伝わっていて、全員ルーカと接するときはやさしい。

ルーカは戦争映画やホラー映画の少年少女のように途中で豹変…することもなく、あくまでこの物語のかやの外にいる。

せっかく登場させたのだから、ルーカにナレーションをさせたら良かったのではないかと思うくらい、本筋とはほとんど絡まないのが特徴的だ。

演じるのはロッコ・ヴィドラッツィ。この後日本ではまったく名前を知られない存在になる。

生きていたら若くても70歳くらいか。ルーカはいずれミラノを離れ故郷に戻るかも知れないことを予感させる結末だったが、演じた本人はその後どんな人生を送ったのだろうか。

 

選考外② 彼がいなかったら物語はもっと悲惨になってた

 

私を含めた視聴者は四男チーロに感情移入して見ていたのではないだろうか。

若者のすべて』の5人兄弟で唯一の常識人だ。しかも勤勉で、肉体労働が終わった後家族全員が寝泊まりする部屋で一人こつこつと勉強し、大企業アルファロメオの技術者になる。

彼が存在感を増すのはその後だ。非常識すぎる家族に対してである。

母ちゃんと兄たち…特に次男と三男のあまりに異常なふるまい。チーロは常識的なのになぜか助言を受け入れてもらえず、正しいことをしようとしても止められる。だが自らの意志を持ち行動する。

「次男が家庭をぶち壊す」と予感していたのも彼だけだ。

「ルーカを守らなければ」と、本当なら自分も兄たちに甘えてもいい年頃なのに弟のことを考えている。自立心もある。そして息子たちに依存する母のことも見捨てない。

後半でチーロの彼女が出てくる。この子は末っ子のルーカにどこか似ていて、無邪気で可愛く、チーロのことが好きで仕方ない。後から振り返るに、この物語でほっとできるのはチーロとその彼女の場面だけだった。

クズ兄たちは「チーロ様」と呼んでもっと感謝するべきである。

 

4位 いくら結婚したからって…

 

この映画で存在感が薄いのは長男ヴィンチェンツォと五男ルーカだ。とはいえルーカは子どもなので仕方ない。

問題はヴィンチェンツォ、兄弟でいちばん年上のはずなのに頼りないこの男だ。

まず母と弟たちがミラノに来ることは手紙で知っていたのに迎えに来ない。同じ日に婚約者ジネッタの家族とパーティーを開いている。

結局、訪れた5人兄弟の母ちゃんVS婚約者の家族で言い争いが起こり、ヴィンチェンツォはいったん母ちゃん&弟たちと貧困者用のアパートに住み始める。二か月後、家賃を滞納すれば滞納した人向けの住まいを与えられるらしい。

よくわからない当時のミラノのシステムだが、当時はまだ敗戦後の辛さに国民は直面している。戦後の貧困層へ向けた救済措置だろう。

母ちゃんはヴィンチェンツォに会うなり「お前、結婚なんかしてそれで私と弟たちを養えるのかい?」と毒親っぷりを発揮したが、この母ちゃんはムッソリーニ政権下のイタリアで必死で育ちざかりの息子たちを育てたはずだ。そのくらい言う権利はあるのかも知れない。

 

ヴィンチェンツォは結局ジネッタと結婚し家を出る。この母ちゃんのことだから「長男だからお前が家族を食わせるんだ」と子供の頃から言われ続け、よほどいやだったのかも知れない。自立心の強い妻ジネッタと核家庭を築き、大家族から「一抜け」するのだ。

 

それはまあいいとしよう。彼のクズっぷりは終盤に出る。殺人事件を起こした次男シモーネのことで家中が大騒ぎになっている中、家の中にいるのに彼はシモーネに近寄るのを三男ロッコと母ちゃんにまかせている。騒ぎの中で通報するのは四男チーロ、チーロが通報したことを他の家族に伝えるのは五男ルーカだ。

 

いや、ここで存在感見せろよ!

 

と思ったが、ヴィンツェンチオは「もうこいつらはおれの家族じゃない」という認識なのかも知れない。

 

また、シモーネが膨大な金を盗み多額の借金が発覚したとき、ルーカ以外の兄弟たちが集められたのだが「いや、おれ妻子いるし払えないし無理だし」と真っ先に言うのも長男であるこいつだ。

無理なのはわかるが、結局それで三男ロッコが大嫌いなボクシングの仕事を10年する契約を結ぶことでお金を借り、すべてを背負うことになるのである。

ロッコを案じて「もうシモーネ兄さんのことは放っておけよ」と言う冷静な四男チーロに対しても、「チーロ、ロッコは一度決めたら考えを崩さない男だ…」と偉そうに言う。

 

長兄であるヴィンチェンツォがロッコをはったおし、「弟のお前はそんなことしなくていい!」と怒鳴り、「盗んだのはおれの弟シモーネだ!通報して捕まえてくれ」と言えば後の運命は変わったのではないか。

あの場でそれができるのは四男のチーロではなく、長男のあんただったよ…

 

あとこれは私の独断と偏見だが、ヴィンチェンツォは存在感が薄くて役に立たないのに妻ジレッタは凄い美女だった。演じたのはクラウディア・カルディナーレ、イタリアの大女優だ。出番が少ないのに彼女がアップになる場面も多いし、クラウディアがヒロインになってもおかしくなかったのではないだろうか。

 

ともあれ長男は蚊帳の外にいたおかげで、間接的に次男の不始末を三男と四男に押し付けた。まあ次男と関わらない方がいいという判断は正しかったね。

 

3位 よく考えると元凶だった

 

3位は母ちゃんロザリアである。前述した「長男だから私と弟たちを養え」という台詞もそうだが、都会で自分も息子も幸せになれると何の保証もなく信じ、ミラノに来たのも、息子たちがボクサーになることに夢を託しボクシングジムへ行かせたのも、もとはと言えばこの母ちゃんである。

 

で、いざ息子たちが働き始めると当然のようにたかる。当時のイタリアの感覚では当たり前のことだったのかも知れないが、母ちゃんはロッコが兵役で稼いだお金を要求し、ロッコがすっからかんになるシーンがある。

 

それなのに長男ヴィンツェンチオが結婚したことは後半で孫が生まれるまで不満だったようで、映画には描かれていないが女目線で見ると嫁姑の仲は最悪だったと思う。

堕落した次男シモーネには甘く、シモーネが帰宅してくれるからという理由だけでシモーネの女ナディアを家に居つかせる。その頃にはロッコは家を出ていたが、若い弟たちチーロとルーカもいるのに。

 

ちなみにシモーネの女と言ってしまったが、このナディアという女性は本作のヒロインである。

序盤で客の一人としてシモーネに接するが、彼のことはなんとも思っていない。ロッコの純粋さに触れた後愛し合うようになり、一時はロッコのために娼婦をやめてタイピングの学校に通ったりもしていた。

そして視点をナディアの昔の客だったシモーネに変えると、自分が堕落したきっかけは娼婦時代のナディアに溺れたことにあった。

シモーネは自分の女を弟ロッコに奪われたと激怒し、事もあろうにロッコの目の前でナディアをレイプ、ロッコは愛する彼女より兄を心配してナディアと別れる。その後、自暴自棄になったナディアは娼婦と戻り、愛してもいないシモーネと再び一緒にいるようになったのだ。

 

5人兄弟の母ちゃんはもちろんそんなことは知らないので、「大事な息子がこの女のせいで」と心の奥ではナディアを憎んでいる。

だからシモーネがナディアを惨殺したときも、ナディアには同情せず息子シモーネをかばおうとするのだ。

 

イタリアの母ちゃんは息子を溺愛するとは聞いていたが、これには絶句した。

 

2位 どれだけお兄ちゃん好きなんだ

 

本作公開と同年、アラン・ドロンはフランスきっての名作映画『太陽がいっぱい』に出演した。富裕層の男(モーリス・ロネ『死刑台のエレベーター』の主役である)を殺し、のし上がろうとする貧困層出身の男が、アラン・ドロンの美しさと野性が共存した個性にはまり、日本でもアラン・ドロンブームが巻き起こった。

 

1956年生まれの私の母はこのとき4歳だったはずで、洋画をほとんど見ない人だ。そんな母でも知っているほどのイケメン大俳優アラン・ドロン。本作と『太陽がいっぱい』の役柄の共通点は、「貧しい生まれと育ち」ぐらいで本作のロッコはとことん聖人として描かれる。

 

前半、次兄シモーネが自分の働く店の女店長のブローチを盗んだと知ってから、ロッコのシモーネに翻弄される人生は始まる。彼はシモーネを責めず、店を辞め兵役へ行く。兵役が終わった後、ボクサーとしてのやる気を既になくしたシモーネが試合中にすぐにリタイアしたとき、スポンサーから「このツケは弟のお前に払ってもらう」と言われ大嫌いなボクシングを始める。

 

ここまでは「なんて心の清らかな人なんや…」と感激できたのだが、問題はその後である。愛し合っていた彼女ナディアが目の前でシモーネにレイプされ、さすがにシモーネとロッコで殴り合いのケンカをした。「やっと兄離れしてナディアを慰める立場になるのね」と思っていた私は、直後に裏切られた。

 

【速報】ロッコ、彼女をレイプ犯に譲る。

 

しかも「ぼくらはもう会わないようにしよう。シモーネとよりを戻して。兄を慰められるのは君だけなんだ」とかひど過ぎる言葉を被害者のナディアに放つのだ。

目が点になる。今なら監督のヴィスコンティSNSで炎上してたで。

好きな男の前でレイプされ、それが原因で好きな男から自分とは別れレイプ犯と付き合えと勧められる地獄。

愛するロッコのためにちゃんとした仕事に就こうとタイピングの学校に通い、娼婦の仕事も辞めたナディア。彼女が絶望し泣き叫ぶのは当然だ。

その後自暴自棄になったナディアは娼婦に戻り、もともと好きでもないシモーネとよりを戻す。

ロッコはここでクソ野郎になった。クズランキング1位と2位、選ぶのに迷ったぐらいだ。

 

シモーネがナディアを家に連れて来る前に、ロッコは身を引くため家を出る。彼は大嫌いなボクシングでチャンピオンになっていた。

追い打ちをかけるように、ナディアに振られたくないシモーネは盗難、借金などをし、前述した流れで今後10年、ロッコはシモーネの借金返済のため、いやいやボクシングを続けなければならなくなった。

チャンピオンになった後、ロッコは泣く。無意識のうちに次兄を憎み、その憎しみを相手にぶつける自分に嫌気がさしたのだ。

 

で、案の定、反省もせずチンピラとつるむシモーネは破滅への道を突っ走る。さんざん貢いだナディアが自分以外の男とも売春していると知り、彼女を惨殺するのだ。

 

それをシモーネから打ち明けられたとき、ロッコは叫ぶ。続けてこう言う。

おれのせいだ。おれが全部悪い

 

もはや視聴者の私は冷静である。呆れて何も言えない。

むしろその言葉を肯定したい。ナディアが死んだ遠因は確かにロッコなのだから。レイプ事件の後、ナディアと駆け落ちするなり、レイプ犯として兄を通報するなりすれば良かったのだ。本当に彼女を愛していたのなら。

 

しかしロッコが心配していたのはナディアよりシモーネのことだった。

 

え、どこまでお兄ちゃん好きなの?

 

いいとこなしのシモーネだし、薄気味悪くなるレベルだ。ロッコはシモーネの殺人罪まで隠そうとする。

哀れなナディアより、アホすぎる兄シモーネの方がそんなに大事だったのかよあんた。アラン・ドロンが超絶美形でなければロッコという人物は批判の嵐だったはずだ。

 

1位 これはもう満場一致でしょう

 

三男ロッコは次男シモーネを甘やかし、四男チーロは冷静だった。

だが、二人ともこう言うのだ。「シモーネはもともと善人だった」

本作唯一の欠点は、シモーネが善人だった頃のエピソードを描かなかったことだ。シモーネは凡人でちょっとした誘惑で堕落し、映画史上最低とも言われるほどクズを極めていく…としか思えなかったのである。

 

シモーネは都会に出て初めて会った、お金があれば手を出せる美女ナディアにはまった。

アルコール中毒と一緒だ。

ナディア中毒になったのだ。

 

シモーネはすぐ上の兄ともルーカ以外の弟2人ともそんなに年が離れていない。兄は都会に出てボクサーとして一瞬とはいえ成功し、美女と結婚して子供を授かった。

上の弟は実は自分よりボクサーの才能があり、どんなに愛しても愛し返してくれなかったナディアと心から愛し合っていたのに自分にナディアを譲った。つまり常に自分の上をいく存在である。

真ん中の弟も自分には無理だった血のにじむような努力ができる男で、大企業の技術者になれた。

 

上の弟ロッコは身を賭して自分をかばう。それに甘えながらもシモーネは悔しかったのではないか。そして下の弟チーロには軽蔑され、「金はやるから二度と家に入るな」とまで言われてしまう。

当然のことだが、シモーネは金輪際弟たちの誰にも尊敬されない。ボクサーとしても落ち目である。

 

末の弟ルーカを抱きしめるシーンは、せめて無垢なルーカには理解してほしいという気持ちがあったのだろう。あまりにも子供じみた感情で、チーロはシモーネからルーカを引き離す。まあ当然である。

 

 ロッコがシモーネの犯した罪を隠し自分を犠牲にしなければ。「もともと善人だった」シモーネがあそこまで堕落することはなかっただろう。冷静なチーロだけがそれをわかっていた。

 

ただ、それにしても…好きな男の目の前でレイプすることによりナディアの唯一の希望を奪い、最後「死にたくない」と叫ぶナディアをめった刺しにして苦しませながら殺すシーンは弁解の余地がない。

 

これで「弟がかばい続けたから」は、ない。世の中には「人を殺せる人、人を殺せない人」がもともといるという説がある。シモーネは「人を殺せる人」であり、殺人という重大な罪を犯してもなお家族に助けを求め、唯一の味方である弟ロッコに金をせびる。

 

できればこんな奴、二度と刑務所から出て欲しくない。そう思い、1960年のイタリアの司法を調べてみた。

 

次男を待ち受けるのは?

 

イタリアの最後の死刑執行は1949年だそうだ。現在は死刑が廃止されている。というわけで、シモーネは死刑にならない。

それでは死刑の次に重い終身刑はどうかと言うと、これは判決が下されてもその前に釈放される囚人がほとんどだそうだ。

そしてシモーネの場合、計画殺人ではなく殺したのも一人。なので懲役刑が妥当だと思われる。

婦女暴行罪やら盗難罪やらもあるが、婦女暴行に関してはロッコしか知らない。ロッコは隠すだろう。盗難罪はチーロが告発するかも知れない。

すべての罪をトータルして、1960年当時のイギリスの懲役刑は何年くらいなのか、素人調べではなかなかわからない。刑務所の中の生活は、過酷なものだとは思うが。

 

恐らく生涯を閉じる前に刑務所から出てくるシモーネ。ロッコはまた兄を助けてしまうのか。孤独なナディアの死はどう償われるのか。

いろいろと考えてしまった。

 

映画紹介文には「格差を描いた映画」とあった。しかしそうは思えない。むしろ家族の依存関係の怖さを描いた映画だと思う。

 

私によって「クズofクズ」に選ばれたシモーネ。

扮したのは演技派の名優レナート・サルヴァトーリで、映画公開2年後にナディア役のアニー・ジラルトと結婚、1988年にレナートが亡くなるまで一緒だった。

 

実生活はハッピーエンドを迎えたようで良かった。

 

 

 

映画は時代を映し出す鏡?-洋画5本を考察ー

 

映画は、直接的に時代を知る鏡のように思える。

負の歴史を描き過ぎたものは、本国で上映禁止になることもある。上映禁止になるということは、そこにそれぞれの国が隠したいものが描かれているからかも知れない。

 

最近は、戦前より前の時代を設定しているのに登場人物の感覚が現代的すぎて違和感を覚えるものもある。史実どおりなら問題ないのだが、あまりに現代的すぎると逆にリアリティがなくなり、歴史の本質はますます見えなくなる。

 

歴史をもっとも体現しているのは、映画に登場する女性たちと、その女性たちに接する男性の考え方だ。

今日は19世紀から第二次世界大戦前までを描いた映画5本にスポットをあて、当時の歴史上の出来事を示しつつ映画の時代背景を見ていきたい。

 

 

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ちなみに『風と共に去りぬ』などの明らかに時代背景(南北戦争時の米南部の人種差別)を隠した有名な映画は省き、映画の時代設定が現代と近い順に綴っていく。

 

1919年ー『婚約者の恋人』(フランス・ドイツ。2012年公開)

【1919年にあったこと】

前年、第一次世界大戦終結

1月、パリ講和会議開催。(フランス)

3月、ムッソリーニが後のファシスト党を作る。(イタリア)

4月、連合国とドイツの間でヴェルサイユ条約締結。

8月、ヴァイマル憲法成立。参政権が20歳以上の男女に。(ドイツ)

この年、ドイツでヒトラーが政界に進出。

※日本は大正時代中期。

 

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(フランスのタイトルは『FRANTZ』 でした)

 

さて2012年に公開されたオゾン監督のこの映画の舞台はドイツとフランス。

詳細は『婚約者の友人』のみを取り上げた記事に書いてあるが、ここで気になるのはドイツ国籍の未亡人アンナの行動だ。夜にひとりで出歩き、前年まで敵国だったフランスを旅する。フランスのカフェに入りルーブル美術館オペラ座にも一人で入る。

アンナはドイツ人だがフランス語も堪能だ。ドイツで初めて女性参政権が認められた年であるのに高等教育を受けていることがわかる。

アンナは先進的な女性であったと仮定しても、あまりにも現代的すぎる気がする。この6年前のドイツを舞台にした映画を見るとその推測は確信に近づく。

 

1913年ー『白いリボン』(ドイツ。2009年公開)

【1913年にあったこと】

9月、ドイツの農村で連続殺人事件(ワグナー事件)発生。

11月、最後の将軍徳川慶喜死去。(日本)

※日本は大正時代になったばかり。翌年、第一次世界大戦がはじまる。

 

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第一次大戦をはさんで前後する『白いリボン』と『婚約者の友人』。同じドイツでありながら、終戦の痛みを抱えつつもどこか開放的な町を舞台にした『婚約者の友人』と異なり、『白いリボン』は閉塞感のある村で虐待に近い教育を受けた子供たちの精神のゆがみを描いている。

 

白いリボン』では暗黙のうちに、成長した子供たちがネオナチになることを予感させる。一方、『婚約者の友人』のアンナは『白いリボン』の子供たちと同年代のはずだが、そのような不穏さはなく亡くなった婚約者の両親もやさしい。

 

田舎と田舎町の違いだろうか。むしろ私は、『白いリボン』監督のミヒャエル・ハネケ第二次世界大戦中に生まれたオーストリア人であるのに対し、『婚約者の友人』監督のフランソワ・オゾンが1967年生まれのフランス人であることに注目したい。

 

恐らく実際は、『白いリボン』のような雰囲気が当時のドイツにより近いのではないだろうか。

 

1890年頃ー『テス』(イギリス。1979年公開)

【1890年前後にイギリスであったこと】 

1887年、群衆が政府に対してデモを起こし暴動となる。(血の日曜日

1888年切り裂きジャック事件。

 

※日本は明治時代。1894年には日清戦争が起こっている。

 

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ドイツから少し離れてヴィクトリア朝時代のイギリス。美しさゆえに不幸になっていく少女テスの生涯を描いた3時間近い大作映画である。監督はロマン・ポランスキー

 

テスは貧しい農家の出で、父親は働かない。あることをきっかけに奉公に出るが、奉公先の金持ちアレックに弄ばれる。作家トーマス・ハーディの原作ではこれが合意の上か犯されたのか微妙な表現がなされているが、映画では明らかにレイプだ。まずここで身分の低い女性がどれほど軽んじられていたかがわかる。

 

テスは妊娠し、実家に帰り出産するも赤ん坊はすぐに死亡、今度は牧場に勤め始めたテスは、そこで牧師の息子エンジェルと両想いになる。

結婚した初夜、エンジェルに他の女性と関係を持ったことがあると打ち明けられたテスは、思い切って自分も処女ではないことを明かす。するとエンジェルは急に冷淡になり、テスを突き放す。

 

日本もそうだが、この時代女性にとって貞操は命よりも大事なものと思われていた。ヴィクトリア朝時代の女性は抑圧されていて、キリスト教の戒律も厳しい。処女ではない、そのことだけでテスの人生は壊れ始める。

困窮したテスとその家族の残る道は、テスが再びアレックの愛人になることだけだった。貧困層が保護されない、どのような理由でも未婚女性は処女であることが求められるなど、まさにこの時代を反映している。

 

1852年ー『ピアノ・レッスン』(スコットランドニュージーランド。1993年公開)

【19世紀半ばのNZの状況】

1830年代以降、イングランドからの入植者が増加。1840年、NZはイングランド支配下に置かれたが先住民マオリ族との対立が絶えず、1860年から1872年までマオリ戦争が続いた。入植者はイングランドスコットランドから花嫁を買うこともよくあった。

※日本は江戸時代、将軍は徳川家慶。1853年にはペリーが来航した。

 

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『テス』から40年ほど遡る。ヴィクトリア朝の女性を描いたものだと他に『ジェーン・エア』は1842年、『嵐が丘』は1847年にブロンテ姉妹がそれぞれ発表している。この三つの作品より前の時代に設定されているにも関わらず、登場人物の服装とマオリ族との関係以外に歴史を感じさせるものがほとんどないのが、この映画の特徴だ。

 

なぜならスコットランドの女性エイダが21世紀を生きる女性のような感覚を持っているからだ。エイダは子持ちで言葉を話せない。ピアノを弾くことで言葉の代わりに心を語る。エイダは入植者スチュアートに買われて娘と共にNZへと向かうところから物語はスタートする。

 

当初この映画は悲劇で終わる予定だったという。たしかにスチュアートへのかたくなな態度を崩さないエイダは非常にわがままで、当時のキリスト教徒の女性としては最大のタブーである不倫をし、それによって自分の子供も振り回す。このような奔放な行動に走る女性は、当時の女性であれば富裕層であっても悲惨な末路しかなかっただろう。

 

そもそも婚外交渉で生まれた子供がいるという点ではエイダはテスと同じだが、夫スチュアートはエイダの処女性は重視していない。嫁ぎ先に婚外交渉で生まれた娘を連れて行くことができ、言葉が話せなくてもエイダの周囲の男性たちは気にしない。これはスチュアートが入植者で立場が弱かったためか、エイダがピアノを所有できるほどの富裕層の娘だったからか…

どちらにしても登場人物のほとんどが実際の時代背景とそぐわない現代的な感覚を持ちすぎ、リアルな19世紀を感じられない映画だった。

1840年頃ー『マンディンゴ』(アメリカ。1975年公開)

1830年1850年アメリカであったこと】

(1813年のフランスのナポレオン没落以降、アメリカ大陸への白人の入植は進んでいく)

1840年、清と英国の間でアヘン戦争勃発。1842年まで続く。

1846年、現在のテキサス州を巡りアメリカ・メキシコ戦争勃発。1848年まで続く。

1848年、欧州で革命が相次ぐ。

※日本は江戸時代、1837年から徳川家慶が将軍に。

 

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ピアノ・レッスン』とは真逆に震え上がるほどのリアリティでアメリカの負の歴史を見せてくれるのが『マンディンゴ』である。

テーマは奴隷制度で人種差別を扱っている。『マンディンゴ』については改めて1本の記事にしたいと思うが、この記事では女性の扱われ方にスポットをあてたい。

 

約20年後には南北戦争が始まるアメリカ南部。白人男性たちは家畜のように黒人を扱い、黒人奴隷の女性を気軽に犯し彼女たちとの間に子どもが生まれても平気で売る。

白人男性の正妻である白人女性たちもそれを気にしない。同じ人間として見ていないのだ。それが南北戦争前のアメリカ南部では一般的だった。

 

若い農場主ハモンドの妻である白人女性ブランチもそうなるはずだった。実際にハモンドとの結婚が決まり、ハモンドに「黒人女性とのセックスの経験はある」と言われても、ブランチはまったく気にしていない。

 

ところが新婚初夜、ずっと黒人の処女を相手にしてきたハモンドはブランチが処女ではないことを見抜く。『テス』のエンジェルと同じようにハモンドは落胆、ブランチを放置し、直後に黒人奴隷のエレンを愛人として買い取りエレンを妊娠させるという異常な新婚生活が始まる。

 

エンジェルもハモンドも今なら「処女厨」である。「あんた自分のこと棚に上げて…」と現代女性なら責めることができるが、当時のキリスト教徒の男性としては常識的な感覚だ。

 

ブランチは必死で自分の初めての男性はハモンドだと言い募る。結局、精神的に疲れ果てたブランチは13歳の頃自分の兄とセックスしたことをハモンドに打ち明ける。

結婚前、ブランチが兄のことをいやがり「早く実家を出たい」と言う場面があるので、「ブランチは性的虐待を受けていたのでは?」と私は思うのだが、『テス』と同様に、男たちにとっては自分の女が処女ではなかったということが重要で、レイプによるものか合意の上でなされたのかは関係ないようだ。

 

心を病んだブランチは、エレンを鞭で叩き階段から突き落として流産させ、夫の信頼するたくましいマンディンゴ族の黒人奴隷を脅し関係を持つ。そして肌の黒い赤ん坊が生まれる。

赤ん坊は闇に葬られ、その後ハモンドはブランチを毒殺する。

自分は他の女性とセックスしても、妻の不貞は許さない。

日本でもこの100年後まで続いた価値観は、世界中で当たり前のものと思われていた。

 

タイムスリップはできなくても

 

現在、世界で最高齢なのは日本人の田中力子さん(117)である。生まれたのは1903年、この記事で紹介した映画だと『テス』の時代に生まれ、『白いリボン』に登場する子供たちや『婚約者の恋人』の主人公アンナと同世代だ。

 

つまり、それより前の時代を実体験として知る人は、もはやこの世のどこにもいない。だから史実をもとに時代背景を設定するしかない。

 

100%は難しいと思うが、私が調べたところ上記5本の中でより時代を表していたのは『白いリボン』と『マンディンゴ』だったと思う。

 

歴史を知る術でもある映画やドラマ、小説などのカルチャーは、時代に併せた人物設定や展開を見せ、後世に伝えていく必要がある。負の歴史を隠さず、人物設定も時代に合わせたものにしなければ、私たちは真実に気づかないまま終わってしまう。

 時代背景を映し出すことで、現代の私たちは人間の悲しみ、苦しみ、そして喜びを、100年以上前に生きた人たちと共有できる。私はそう確信している。

 

 

名作スリラーをあえてコメディとして楽しんでみるー映画『死刑台のエレベーター』(1958)-

ヌーヴェルヴァーグ(意味はニューウェーブ、新しい波)の先駆けともなったフランスのスリラー映画。監督は当時26歳だった巨匠ルイ・マル。後に日本でもリメイクされた。

 

思いがけない展開と二転三転する結末、流血描写がまったくないのにどきどきが止まらないスリリングな展開…2020年に見ても衝撃を受ける。まぎれもない名作で、同じような映画はもう生まれないだろう。

 

主演はフランスを代表する女優のひとりジャンヌ・モローと、若い頃から渋いイケメン俳優モーリス・ロネ。このコンビは後に同監督の『鬼火』(1963年)でも共演する。

 

スリラー映画としての素晴らしさを綴りたかったのだが、あまりに有名な本作。他の映画評や映画ブログで既に分析されつくしていたので、私のブログではあえてこの映画の抜け道を案内したい。

 

そう、気づいてしまったのだ。

死刑台のエレベーター』はコメディとしても楽しめることを。

 

恐らくルイ・マル監督はこんなことは予想していなかっただろうし、既に観たことのある人は、「何言ってんだこいつ」と思いつつ読んでいただけたら嬉しい。

ちなみにネタバレしないとコメディ要素は解説できないので、結末部分だけ避けてネタバレありで解説する。

「先に観てしまいたい!」という人はサブスクやDVDなどで楽しんでから再訪してほしい。

 

 

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元大尉なのにおっちょこちょいなダークヒーロー

 

元大尉ジュリアン(モーリス・ロネ)は軍需によって利益を得ている会社に勤務し、社長夫人フロランス(ジャンヌ・モロー)と不倫している。

 

「社長を殺し二人で逃亡しよう」ということになり、社長の所持しているピストルをフロランスからもらい、ジュリアンは自分の仕事部屋の上の階にある社長室に向かって社長を撃ち殺す。ピストルをもらった理由は社長の死を自殺のように見せかけるためである。

 

電話番の社員の女性を残業させ、「自分の仕事部屋にいる」と告げてアリバイ作りをするのだが、社長殺害直後にこの社員の女性からジュリアンに社内電話がかかってくる。

 

あわてて社長室から部屋に戻るジュリアン。

 

…と、ここまでは昔のサスペンス映画らしいのだが、ジュリアンの社長室から自分の部屋へ戻る手段が大問題である。

彼はなんと社長室の窓からロープをたらし、そのロープをつたって下の階にある自分の部屋へ異動するのだ。

 

ちなみに、このビルは大通りに面している。

ロープで移動する男の姿は外から丸見えである。

 

直後あわてて社員からの電話をとり、アリバイは成立(?)。

帰宅しようとエレベーターで1階に降り、愛車のオープンカーに乗りビルを見上げる…と、そこにはしまい忘れたロープが!!

 

なんでや。なんでなんや。たぶんその時点で半分ぐらいの視聴者が「あれ?ロープ忘れてない?」と思っていたはずだ。

ジュリアンはあわててビルに戻りエレベーターに乗る。

ちなみに、ピストルと車のキーはオープンカーに置きっぱなしである。

大尉は軍隊ではかなり上の地位なのだが、戦時中よく出世できたなこの人、と思わせるおっちょこちょいっぷりである。

社長の帰宅を確認しない警備員

ジュリアンがエレベーターに乗っている最中に、警備員がそれに気づかずエレベーターを止め帰宅する。

これもつっこみたくなるが、1958年なので、もしかするとエレベーターが稼働しているか外から確認する方法はなかったのかも知れない。

ひとまずいいとして、問題は社長が社内にいることは少し考えればわかるのに、警備員が社長室を確認しないままエレベーターを止めることである。

ジュリアンもジュリアンで警備員に一声「忘れ物をした!」と声をかければこの事故は防げたのに、それをしない。

ジュリアンもおっちょこちょいだが警備員もおっちょこちょいである。

エレベーターに残されたジュリアンの姿は自業自得としか言いようがない。時代が時代なので、エレベーターの中には非常時の通報装置も携帯電話もない。

どうするジュリアン…!という感じなのだが、ここでモーリス・ロネの演技力とイケメンらしさに拍車がかかる。

パニックにならず、冷静に脱出方法を考えるのである。

『鬼火』でも思ったが、モーリス・ロネは自分ひとりしかいない場面で、より俳優としての才能が光る人だ。

アホカップルが運命を変える

 ジュリアンがそのままにしていったオープンカーに乗り込む若い男がいた。名前はルイ、この映画きってのダメ男である。

ルイの彼女は花屋で働くベロニクという少女。この映画きってのだめんずである。彼女はあわててルイを止めようとする。

扮するのはジョルジュ・ブージュリイとヨリ・ベルタンという若い役者だが、重要な役なのに存在感が薄い。モーリス・ロネジャンヌ・モローを際立たせるための配役だったのだろうか。

 

結局ルイはジュリアンの車で夜の街を走り出し、休日を楽しもうとする。ベロニクもあわてて同乗し、高級車での走行を楽しむ。

ここで序盤以降初めてヒロインの社長夫人フロランスが登場。夫を殺害した後、ジュリアンとカフェで待ち合わせる約束をしていたのだ。

しかしジュリアンが来ない。不安な表情で待ち続けるが、やがてカフェの外でジュリアンの車が走り去っていくのが見える。

車の窓から身を乗り出しはしゃぐベロニクを見つけたフロランスは、「ジュリアンは夫を殺さず浮気した!」と思い込む。

そして悲しい表情で夜の街をさ迷う。

不倫相手を深夜に探し回る人妻

この映画のキャストで最初に名前が出るのは、ジュリアン役のモーリス・ロネではなくフロランス役のジャンヌ・モローだ。

ジュリアン、ルイ、ベロニクはかなり体当たりの演技をするのだが、フロランスはもはや大女優ジャンヌ・モローを堪能するための被り物のような存在だ。

ジュリアンの行きつけのバーや知り合いに「ジュリアンはどこ?」と声をかけ続ける。

時間は深夜、フロランスは人妻である。思い切りあやしい。

ちなみにこの映画ではフロランスとジュリアンが不倫した経緯は一切描かれない。フロランスが一心不乱になってジュリアンを探すほど焦がれている理由もわからないのだが、ジュリアン役のモーリス・ロネがとても魅力的なので、私たちは納得しだんだんとフロランスが可哀想になる。

ともあれ、「ジュリアンは?」と声をかけられた人々は不審そうにフロランスを見る。

フロランスもジュリアンと同様に、計画殺人犯らしくないほどおっちょこちょいだ。

 

車をぶつけられたのにご満悦な謎のドイツ人夫婦

さて、ジュリアンの車を盗み夜の高速道路を突っ走るアホカップル、ルイとベロニク。週末ずっと車を使い続けるつもりのようだ。

ルイはとことんクズ男だった。盗んだ車で駆け抜けたあげく煽り運転をし、とうとう他の車に衝突する。

ぶつけられた車から出てきたのは笑顔のドイツ人夫婦。年齢は50歳くらいで裕福そうだ。なぜか全然怒っていない。そのうえ、パーキングエリアのような場所にあるホテルに泊まらないかとルイとベロニクを誘う。

ホラー映画でルイとベロニクが主役なら、ここで豹変したドイツ人夫婦による恐怖の一夜が繰り広げられるはずだが、この映画はホラーではなくルイ&ベロニクも主役ではない。ドイツ人夫婦は本当に怒っていなかった。なんでや。

 

夫婦は夕食にルイとベロニクを招待し、楽しいひと時を過ごす。夫婦の夫は「私はスポーツマンが好きなんだ」とまで言う。

ルイはただの性格の悪いチンピラだし、煽り運転したあげく人に迷惑をかける奴はスポーツマンじゃないと思うのだけど…という映画公開62年後の視聴者である私のツッコミを無視し物語は進む。

結局のところルイはどこまでもクズであり、翌朝恩を仇で返すようなことをしでかす。最終的にそれがルイの盗んだ車の持ち主であるジュリアン、そして愛人のフロランスの運命も狂わせていく。

忘れ去られたロープ

エレベーターから脱出しようとするジュリアン、ドイツ人夫婦殺人事件の犯人としてジュリアンを通報しながらもやがて真犯人を知りジュリアンを救うため奔走するフロランスと、終盤にかけてスリリングな展開を見せていく。

 

ちなみにジュリアンがエレベーターに閉じ込められた原因を作ったロープは、知らないうちに上階から地上に落ち、通りすがりの子どもが持って帰ってしまう。

その後、ロープのことは誰にも言及されずジュリアン本人ですら忘れている。

「どういうこっちゃい」とここでもツッコミ不可避だ。ジュリアンはエレベーターというよりロープのせいで運命を狂わされたのではないか。

そうなると『ロープの死刑台』という絞首刑を連想させる邦題になったはずなので、エレベーターに主題を変えたのかも知れない。私の想像に過ぎないが。

 

多才なルイ・マル監督の世界

 

全盛期のジャンヌ・モローのアップで始まり、アップで終わる『死刑台のエレベーター』。

スリラー映画、サスペンス映画、そしてこれは監督も予期していなかったと思うがコメディ映画としての要素も詰まった作品だ。邦題がネタバレしているようでしていないのも絶妙である。

 

ルイ・マルはこの後、コメディ『地下鉄のサジ』、精神を患った男が自殺するまでの48時間を描いた『鬼火』、ナチスドイツ占領下のフランスの寄宿学校を舞台にした『さよなら子どもたち』など数々のヒット作を生み出す。

ジャンルが違うようでいて、現代人が見ても真新しさを感じるのはこの監督の作品すべてに共通している。

 

余談だが、フランスの死刑制度は『死刑台のエレベーター』の約20年後、1981年に廃止されている。フランス革命以降、制度廃止まで処刑にはギロチンが使用された。

この13年後にはナチスに支配されるという事実ー映画『婚約者の友人』ー

この映画の主題は「嘘」だ。

人を傷つけないためにつく嘘。だが、それはやさしさではなく自分の辛さをまぎらわしたいがためにつく嘘なのかも知れない。

婚約者の友人』の舞台は第一次世界大戦後すぐのドイツとフランス。独仏間の国民感情、モノクロから何度かカラーに切り替わる独自の映像、結末の意味など、考察する要素がたくさんあり終わった後にしばらく考え込んでしまった。

自分なりの答えを見つけたので、ここに書きたい。

 

なお、監督のフランソワ・オゾンエルンスト・ルビッチ監督の1932年の映画『私の殺した男』(原案はモウリス・ロスタンの舞台劇)から構想を得てこの映画を作ったらしい。しかし後半はまったく異なる展開とのことだ。

 

あらすじ

 

1919年、第一次世界大戦直後のドイツ。

戦争で息子フランツを亡くした老夫婦と、フランツの婚約者アンナは悲しみを癒し合うように仲良く暮らしていた。

ある日、アンナは見知らぬ青年がフランツの墓に花を手向けているのを目にする。

青年は老夫婦とアンナの住む家を訪れるが、戦争でフランス兵に息子を殺されたフランツの父(恐らく医師)は彼を患者だと誤解し「フランス人は診ない」と拒絶する。

一方、アンナは戦争が起こる前、フランツがフランス留学していた頃の友人なのではないかと考える。そのフランス人はアドリアンと名乗り、やがてアンナやフランツの両親とも打ち解けるようになったが、帰国する前日、ある真実をアンナに打ち明けた。

ショックを受けたアンナだったが、真実を夫婦に告げないまま帰国するアドリアンを見送る。

アンナがアドリアンに惹かれていることに気づいた夫婦は、アンナにフランスに行きフランツにもう一度会ってはどうかと勧める…。

 

第一次世界大戦ナチス政権のはざま

まずは史実から振り返ってみたい。

1914年、オーストリア皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫婦が暗殺されるサラエボ事件が起こった。これにより史上初の世界規模の戦争が幕を開ける。

オーストリアには同盟国と呼ばれるドイツ、ブルガリアなどがついた。戦う相手は連合国と呼ばれるイギリス、フランス、日本などである。

主戦場はヨーロッパで7000万人以上が動員、戦闘員・非戦闘員含め1600万人以上が死亡した。この映画の原題(Frantz。ドイツ語読みはFranzが正しいが、フランス人がよくスペルミスをする人名であるため、オゾンはあえてこのタイトルにしたらしい)でありながら、名前と回想でのみ登場するヒロインの婚約者フランツも兵士として命を落とし、遺体は見つからずお墓のみが作られている。

第一次世界大戦アメリカが連合国側についたことにより、1918年11月、連合国側が勝利する。

 

映画がスタートするのは第一次世界大戦終戦から1年も経っていない頃なので、フランス人はドイツで、ドイツ人はフランスでそれぞれ辛い思いをする場面がある。

フランス人のアドリアンと仲良くなったフランツの父は、息子の生前の友人に会えたことで気分が明るくなり、バーで同年代の友人たちと久しぶりに会う。しかし彼がフラン人と仲良くなったという噂を聞いた友人たちは冷淡に接する。彼らもまた息子たちを戦争で失っていた。

アンナはフランスへの旅路で、車掌から「ドイツ人がフランスに何の御用で?」といぶかしがられ、パリで入ったカフェではフランスの軍人たちが国家を熱唱しているのを目にする。

 

この映画の後、ドイツもフランスも平和な日々はすぐに終わる。

ドイツがナチス支配下に置かれたのは1933年、この物語の14年後だ。1939年にはイギリスとドイツの間で戦争がはじまり、第二次世界大戦へと繋がっていく。同じ年、ドイツ軍はフランスに入り、パリを含むフランス北部はナチスドイツの支配下に置かれた。

フランスにいたユダヤ人たちは強制収容所に送られ、1942年には1万3152人ものユダヤ人がパリやパリ郊外で検挙されたヴェル・ディヴ事件も起こっている。

このあたりのフランスとドイツの関係性については、『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)や『さよなら子供たち』(ルイ・マル監督)、『サラの鍵』(ジル・パケ=ブルネ監督)といった優れた映画でも知ることができる。1945年までナチスはフランスを苦しめ続け、解放後フランスはドイツ人の恋人になったフランス人女性たちを虐待した。

アドリアンはなぜドイツに来たのか

この映画は15年ほどしか続かなかった戦争のない時期の始めの頃である。中盤、川辺で「人が死ぬのはもうたくさんだ」とつぶやく年配の男がいるが、この後のことを思うと暗澹たる気持ちになる。

平和が戻ってきたとはいえドイツとフランスは常に緊迫状態にあった。前述したようにこの映画のところどころでそれがわかる。

そんな中、アドリアンはなぜフランスに来たのか。

ここからはネタバレを含みつつ考察したい。

 

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前半の最後で明らかになる事実は、「普通の人間が戦争に巻き込まれる残酷さ」を表している。

罪悪感に耐え切れなくなったアドリアンは、雰囲気にのまれるまま嘘をつく。そして自分の嘘を正当化するかのように、アンナに真実を明かす。

それは、アドリアンだけではなくアンナを苦しませた。

中途半端だ。嘘をつかずドイツに行かないこともできたし、嘘をつくならどんなに苦しくても、戦争で大事な人を失った人を傷つけないためにつき通して欲しかった。

アドリアンさえ来なければ、アンナは静かな日常を過ごせていたのに。

アンナは苦悩しながらもアドリアンの嘘を知った後、老夫婦を傷つけないため、やさしい嘘をつく。同時にアドリアンにもフランツの両親には私から言ったと嘘をつく。

アドリアンからアンナへと、罪悪感に苛まれる人物が移り変わる。

モノクロとカラーの対比とフランツの両親

この映画のほとんどの場面はモノクロだ。しかしときどき、カラーになることがある。

恐らくアンナが亡き婚約者フランツを思い出しているときに、画面の色が変わるのだ。

これによって「この映画の主役はアンナである」という事実に私たちは行き着く。

 

後半を振り返ると、異様な点が増えてくる。

フランツの両親の善良さからつい見落としてしまいそうになるのだが、戦争が終わったばかりで、敵国だったフランスにドイツ人女性一人が旅するというのはかなり恐ろしいことだったのではないだろうか。

もしこれが逆の立場、アドリアンのように「フランス人が一人でドイツを…」だったら、すぐにわかるはずなのに、アンナが旅立つ前、フランツの両親もアンナもそれにまったく気づいていない。

「自分の家族がフランスに殺された」という苦しみの中では、「相手の家族が自分の国の兵士に殺された」という事実に思い至らないのだ。

だからこそ、フランスに向かうアンナに「いい旅を」と笑顔で手を振れる。アンナも嬉しそうにそれにこたえる。

直後にアンナは、フランスでは自分が異邦人であることを思い知る。

オゾン監督が映画後半に準備した数々の皮肉

それを皮切りに、オゾン監督らしい皮肉が加速する。

例えば回想や登場人物の言葉の中にしか登場しないフランツ。性格はそこまで強調して語られず、趣味がバイオリンだったということや戦場で敵国兵と向かい合う際の怯えた目しか私たち視聴者の記憶に残らない。

だがパリでフランツが滞在していた宿に泊まったアンナは驚く。そこは売春宿で、はたから見ても治安が良いとは言えない地区にあったのだ。

フランツにもアンナが知らない一面があった。嘘があった。

アドリアンをたずね歩いたあげく、アンナはパリを離れアドリアンの住まいにようやくたどり着く。彼は元貴族だったのかも知れない。大きな屋敷を所有し、庭は散歩できるほど広く乗馬を好んでいた。

アンナもアンナで貧しいわけではない。

だが、アンナがパリ周辺で目にした戦争から復興しようとする人々の様子からは考えられないほど、アドリアンは豊かだった。

その豊かさが、アドリアンの甘さ、心の弱さにも繋がっているのかも知れない。彼はアンナが自分に惹かれていることすら気づいていなかったのだ。

 

アドリアンが好きなマネの絵

 

アドリアンが「フランツが好きだった」と嘘をついたマネの絵。タイトルは「自殺」。

 

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なぜあえてこの絵を指したのだろうか。私はこの仰向けに倒れる男性が、フランツに見えて仕方がない。

アンナが絵を見つめるラストシーンは、どんな考察もできる。

結末で絵の前にいた男性は、アドリアンと同じように戦争で傷ついた兵士だったのかも知れない。戦場とはいえ人を殺してしまい、アドリアンのような自己満足もできず、苦しんでいるのかも知れない。

アンナは自分の嘘の中で生きようと決めたのではないか。

当時のパリでドイツ人女性に自活の道があるのかはわからないが、アンナがフランツの両親への罪悪感を抱えたままドイツに帰るとは思えない。

嘘を真実だと思って生きるか、もしくは死ぬか…。

「幸せになって」とフランツもアドリアンもアンナに告げるが、二人とも自らの力ではそれを実現できなかった。そして登場人物の気づかないうちに、ドイツにはナチスの足音が忍び寄っている。フランスに残ってもドイツに帰っても、これからのアンナに幸せが訪れる可能性は低い。

 

アンナの嘘の手紙を読んで満面の笑顔で喜ぶフランツの両親が救いだった。彼らが真実を知ることは一生ないだろう。

フランス人のレビューを読むと

アンナに扮した女優パウラ・ベーア含めこの映画に登場する人物はドイツ人が多い。とはいえ監督のオゾンがフランス人であり、私もフランス語であれば少しわかるため、フランスのレビューサイトでフランスの人たちはどのような感想を綴ったのか調べてみた。

(いくつかピックアップして要約し日本語訳しています)

 

「よくよく考えてみると、(監督が)白黒で撮影したいと思ったのは、芸術のためというよりも低予算にするためだとわかった。実際、昔のフランスやドイツのセットだけでもお金がかかる。(中略)主人公のアンナは、私たちの「赦し」(キリスト教の「汝の敵を赦せ」という教えのことかと思います)と「勇気」の概念を揺さぶる」(ALLOCINÉ

 

フランソワ・オゾンは、アンナとアドリアンの心のすれ違い、特に嘘と嘘を正当化することを見事に演出している。戦争によるトラウマを描いている映画でもあるが(中略)私たちを驚愕させるまでには至っていない」(ALLOCINÉ

 

「この映画が最初から焦点をあてているのは、(戦争における)女性だ。最後、アンナは自由な女性になる。悲しみから解放されたアンナの夢でこの映画は幕を閉じる。見知らぬ人の隣に自由に座り、自分を悩ませたマネの絵画”自殺”を見て深く考え、戦争の敗北とは無関係な自分の若さを感じ満喫する」(Critikat

 

なるほど、「アンナの解放」の映画と受け取ることもできるのか。フランスにおいても意外なことにその後の第二次世界大戦について触れられているレビューはあまりなかった。

結末に見出すのは、不穏さか希望か…国籍を問わず、その答えは視聴者にゆだねられる。

 

これは本当に当時のドイツ?

 

1点だけ疑問に思った点がある。

主人公のアンナは田舎町とはいえ夜に出歩き、婚約者や夫でもない男性とダンスし、フランスを一人で旅する。それが1920年前後のドイツで可能だったのだろうか?

ミュージカルにもなった1983年の戯曲『春の目覚め』(フランク・ヴェーデキント著)や1913年のドイツの田舎を舞台にしたミヒャエル・ハネケ監督の映画『白いリボン』では、グロテスクなまでに抑圧された当時のドイツの姿があった。

田舎か都会かという違いもあるのかも知れないが、日本も当時は大正時代、きょうだいであっても未婚の女性が男性と出歩くのははしたないと言われていた頃である。

ただドイツについての歴史はそこまで詳しくないので、地方差もあるのかも知れない。それにしても現代的すぎるような気がして、少し残念だった。

小説で実験をする『人間』又吉直樹

文学は、もっと実験的で良いはず。

化学とか言語学とか、他の学問ではどんどん新たな手法が生み出され、「~(人名)法」と名付けられているものもある。

出版業界も大きく変化したことだし、小説を書くことで、作者たちも批判を恐れないで新たな実験をしていただきたいと個人的に思っている。

 

又吉直樹さんは文学の実験をしている稀有な作家だ。

作家デビュー前からお笑い芸人をしていることが、良くも悪くも又吉さんの小説の評価に影響を及ぼしている。

 

又吉さんが芸人であることを抜きにして、彼の小説を読むことは難しい。

その読者の感覚は著者本人が変えたくても変えられるものではない。

でも、又吉さんの仕事が作家だけではないから、彼は小説を使って実験ができるのだ。

新しい文学の実験を。

 

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又吉直樹『人間』(毎日新聞出版/2019年10月10日発行)

 

『人間』も実験的な小説である。

主人公は、又吉さんのように見える。

登場人物の影島は、もっと又吉さんのように見える。

意外と「めっちゃいやなキャラ」として描かれるナカノという登場人物も、又吉さんのある部分を体現しているのかも知れない。

 

さて。

登場人物の輪郭がはっきりしていくにつれて、私はわからなくなってくる。

どの登場人物が、又吉さん?

 

小説の中に著者を投影した人物がいなくても、普通は問題ない。

それなのに、私たち読者は読みながら又吉さんを探してしまう。

著者本人が意識しているのかどうかはわからないが、これは彼しかできない手法である。

 

「又吉さんを探せ!」と言わんばかりの前半の混乱があるからこそ、中盤以降、この小説は勢いを増す。

 

中盤で出てくる作家とコラムニストの長いバッシング往復書簡なんて、作者が他の人なら読みたくない。

 

だが、私はのめりこんで読む。

書いたのが又吉さんだから。

そこに「作家であり芸人である著者の分身を見つけたい」という気持ちが生まれてしまうのだ。

 

作家としてちょっとあざといかも知れないけれど、

「小説とはこうあるもの。こういった技巧が必要」

と感じるのは読者の凝り固まった先入観だ。

 

エンタメ作家ならともかく、本来、純文学作家は気にしないで小説で実験しても良いはずだ。

かつて、著者の憧れる太宰治や、太宰と対立した川端康成もそうしたように。

先入観をぶち壊してこその純文学。

著者はそれを『人間』で成し遂げた。

 

芸人であり作家でもある又吉直樹は、作中でどきっとする言葉を読者に投げかける。

 

”神様はなんで才能に見合った夢しか持てへんように設定してくれんかったんやろ。それかゴミみたいな扱い受けても傷つかん精神力をくれたらよかったのに”

 

「自分の夢が叶わないかも知れない」と思ったとき、誰もが一度はこう感じたことがあったのではないだろうか。

追い打ちをかけるかのように、辛辣な言葉を主人公は放ち続ける。

 

”なんで自分達と似たところから這い上がった奴にだけ過剰に反応すんのかね”

 

ほんとうに、”みっともない”

 

「その”みっともない”ことが匿名ででき、世界中に配信される時代になってしまったことを、きっと又吉さんも憂えているのだろう」

と勝手に私は想像し親近感を抱く。

 

終盤、急に主人公の家族にスポットがあたるくだりは、突拍子のなさを感じてしまったが、中盤までの流れで「ああ、これも又吉さんの実験なんだろうな」と私は勝手に納得した。

 

実験をしないと、きっともうすぐ純文学は淘汰されてしまう。

凝り固まった文壇に、一石を投じてくれた小説だった。

 

 

 

逃げられない子どもたちが残したもの 『ぼくらの』鬼頭莫宏

※一部ネタバレあり。

『ぼくらの』は、ただの鬱漫画じゃない。

ロボットがメインのバトル漫画でもない。

甘えの許されない状況下に登場人物を置き、生きることの本当の意味を彼らの死によって伝える、他に例を見ない人間ドラマだ。

 

アニメもあるが、原作漫画のメッセージ性や世界観が継承されているのは主題歌だけだった。

ここでは、漫画『ぼくらの』について書く。

 

二度三度読み返すごとに、新しい気づきがある。伏線が物語に張り巡らされている。

夏休み、自然学校に参加した中学1年生14人と、そのうちのひとりの妹カナ。彼らはお互いにニックネームをつけて呼んでいた。

1巻の冒頭、物語全体を通して意味を持つ、ある少年のモノローグが記されている。

 

中学生になった時、

ぼくらはもう一人前で

自分でなんでもできると思った。

ぼくらは

泣いたり笑ったり

怒ったり

もう、この世の中のことは

ほとんど

知った気になっていた。

 

でも本当は

父や母に守られ

社会に守られている

ただの子供だった。

 

本当の

悲しみや喜びや

怒りは

そんな日常の中には

なかった。

 

それを知ったのは

ぼくら15人が集まり

そして、

 

あれ、

 

あれに

出会ってからだった。

 

(『ぼくらの』1巻 (鬼頭莫宏著、IKKI COMIX、2004年)

 

彼らは海で遊んでいたとき、洞窟を見つけ、中に入る。

そこでゲームを作っているという男と出会い、ゲームに誘われる。地球に15体の敵が襲い掛かってくる。それを迎え撃つロボットのパイロットになるゲーム。

「おもしろそう!」

中学1年生の14人はゲームに契約する。10歳のカナのみ、兄に止められ契約できなかった。

 

それはゲームではなかった。

地球は本物の地球。子どもたちが事前に説明を受けているのはここまでだ。

 

自分たちが負ければ地球は滅亡する。自分も友だちも家族も死ぬ。

勝てば地球は次の敵が来るまで平和だ。だけど、操縦していたパイロットは、死ぬ。

勝っても死ぬのだ。

契約した時点で、子どもたちはそれを知らない。

 

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1人目のパイロットはワク、1巻の表紙でいちばん大きく描かれ、見た目も性格もバトル漫画の主人公によくいるタイプだ。

まず彼の名前が呼ばれてパイロットになった。勇敢に戦い、勝った後死ぬ。タイミングがタイミングだったので、他の子どもたちは事故死だと思いこむ。

 

子どもたちは自然学校からそれぞれの自宅に戻り、自分たちに死が迫っていることを知らないまま日常生活を送る。

次に名前を呼ばれたのはコダマという少年。自分のことを特別だと思っていて、父を尊敬している。

 

コダマは街中で戦った。街が破壊されていくのを見て、子どもたちは気づく。

「こんなのはヒーローがやることじゃない」

誤ってロボットで父親を踏み潰したコダマは動揺する。

だが、最後まで戦い勝つ。敬愛する父を殺してしまった自分を「特別な存在じゃないのかもしれない」と思ったまま、命を落とす。

 

最初の二人、ワクとコダマは、操縦した後、パイロットが必ず死ぬことを知らないまま逝った。

案内役である、ぬいぐるみのような容姿のサポーター「コエムシ」は、真実を残った子どもたちに教える。

想像もつかない絶望的な運命が自分たちに待ち受けていることを、彼らはそこで知るのだ。

 

その後はラストまで、ひとりひとりパイロットが選ばれ、それぞれの背景や戦闘までの苦悩、戦う姿が描かれる。

 

「死にたくない」吐き気をもよおすほどそう思いながら、大切な人のために戦う子、

死の恐怖に耐えきれず家や人を踏みつけて逃げ、自身も悲惨な最期を迎える子、

辛い状況の中に既にいて、復讐の道具としてロボットを利用する子…

 

ロボットは戦闘中、周辺に住む人たちにも被害をもたらした。

何万もの人たちが死に、犠牲者のストーリーは作中で描かれない。

 

5巻で敵の正体がわかった瞬間、彼らの戦いはより過酷なものとなる。

勝って死んでも自分たちは正義の味方ではない。殺戮者なのだ。

だけど、勝たないと地球は滅亡する。

 

パイロットのひとりキリエ。

彼はいじめられっ子だったが、聡明で物事を冷静に見つめていた。

キリエはアクション映画が苦手だと言う。

 

ああいう映画って

たいてい

一般の人達が巻き込まれて

犠牲になるじゃないですか。

 

(中略)

 

観客はたいてい、

巻き込まれて

犠牲になる群衆に

関心をもたいないですよね

 

主人公達が死んでいくことには

過剰に反応するのに

 

(『ぼくらの』6巻 (鬼頭莫宏著、IKKI COMIX、2006年)

 

これはまさに読者である私たちのことだった。

パイロットである子どもたちには「だまされたあげく死ぬしかなくて、かわいそう」と反応するのに、彼らがロボットを戦わせたことで亡くなった多数の人々や、敵側には配慮しない。

 

直後にキリエもパイロットとなり死ぬ。

残った子どもたちは、仲間の死に慣れていく。

 

後半、とうとう10歳のカナも契約していたことが判明する。

自分に暴力を振るう兄。10歳とは思えないほど思いやりがあるカナは、兄のために抵抗しなかった。同時に自分の死も受け入れているようだった。

だが、一つだけ実現したいことがあった。

結局それは叶わなかった。

後に回想で、死ぬ間際、カナが「私、死んじゃうよう!」と兄にすがりついていたことが判明した。

 

大人びていても、やはり10歳の子どもだったのだ。

カナ以外のパイロットも、全員まだ中学1年生だ。

 

事実を知った親たちの一部は、自分が代わりになりたいと悲痛な想いで嘆く。

しかし、誰も代わりにはなれない。

 

そして、15人の子どもたちの中には裏切り者もいた。

 

ラストパイロットの名は伏せる。

彼の戦いはいちばん苦しいものだった。これまでの人類が誰も経験したことのないような、大量殺戮をしなければならない状況に追い込まれたのだ。

彼は嘔吐する。まだ生きているのに、既に死んでいるような気持ちだっただろう。

任務をまっとうし、彼は背景が真っ白な、死後の世界で14人の仲間たちと合流する。

脳が見せた最後の幻だったのかも知れない。

 

ラストパイロットの後、もう一人、物語を受け継ぐ人物がいた。

そこに救いがあるのか、ないのか。

子どもたちの戦いは絶望しかなかったのか、希望を残したのか。

 

すべてがわからない。

「大切な人を守れた」「だけど、自分たちも生きたかった」

その事実だけが残る。

 

生きることは死ぬことに直結する行為だ。

ふだん忘れがちだが、パイロットたちでなくてもみんなそうだ。

できれば、自分や身近な人が死ぬことを想像せずに生きたい。

その願いが叶い続ける人はほとんどいないだろう。

 

「生」の実感と、本当の「悲しみ」「喜び」「怒り」。

登場人物たちの死によって受けた心の痛みで、私はようやく知ることができた。

 

『ぼくらの』は単なる鬱漫画じゃない。

町の小さな本屋の可能性 『13坪の本屋の奇跡』木村元彦

 

本屋が町にあふれたら。

とりとめもなく、そんな想像をすることがある。

「好きなジャンルの本は、あの本屋に行けば、最適なものが見つかる」

「今自分に必要な本がわからなければ、本屋さんに相談しよう。ぴったりのものを見つけてくれる」

町の人たちはみんなそう認識し、本屋のレジの前で列を作る。町の子どもたちも、いっしょに列に並んでいる。

「これな、あの本屋さんが選んでくれた本やねん」

あとで友だちに会ったら、子どもたちは自慢するのだ。

 

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 「生活空間である町のインフラとしての本屋」

『13坪の本屋の奇跡』で、著者木村元彦は私が憧れる本屋のことを、そう表現していた。

それが現在の日本で実現しないのは、なぜなのか。

ランク配本、見計らい配本という独自の配本システムや無料配送するインターネット書店増税…若者の本離れ以前に、問題が山積みなのだ。

総務省によると、1991年には全国で7万6915店舗あった本屋は、2014年、3万7817店舗になった。半減している。著者も、『13坪の本屋の奇跡』で「図書カードリーダーのある店が10年前の4分の一」と記していた。

 

まず、配本システムとは何なのか、確認したい。

 

 ランク配本の「ランク」とは、本屋の「ランク」のことである。

 

木村元彦『13坪の本屋の奇跡』では、大阪にある13坪の本屋、隆祥館書店にスポットをあてる。現在の代表取締役、二村知子さんが理不尽なランク配本に直面したのは、1999年のことだった。

当時、日本で大ブームを巻き起こした「動物占い」シリーズ発売時だ。

 

大規模書店では、店のいちばん目立つ場所に「動物占い」シリーズが山積みされていた。しかし、13坪の本屋「隆祥館書店」には、数冊しか入ってこなかった。

お客さんたちは、当然「動物占い」シリーズがないことに驚く。

隆祥館書店の代表である二村知子さんは、取次に連絡を取り、異議をとなえた。

 

出版社→取次(トーハンなど)→本屋というルートで、本は送られてくる。

取次は、本屋をランクで分ける。大規模書店には話題になっている本や新刊を多数入れる。しかし、小規模書店にはわずかしか入ってこない。

 

二村さんは取次に対し、欲しい本をお客さんに買ってもらうため、「もっと動物占いの本を入れてください」と説得した。しかし、取次は、「ランク配本なので、無理です」と応じなかった。

二村さんは、取次の社員がひんぱんに隆祥館書店に顔を出し、注文を聞いてくれていることや、納品のために必死で段取りを組んでいることを知っている。

問題視するべきなのは、取次の社員ではなく、長年受け継がれていた配本システムの構造なのだと、二村さんは実感した。

それは、前代表の二村さんの父が、取次業界に対し声を上げ続けていたことでもあった。

 

二村さんは努力の末、出版社の販売担当者にコンタクトをとり、この件を伝えた。

すると返ってきたのは、「弊社の本が、求めている書店さんに届いていないなんて」という謝罪の言葉だった。

 「動かないと何も始まらない」

二村さんの、その後の道しるべともなる出来事だった。

 

 

『13坪の本屋の奇跡』にも書かれているように、町の本屋が苦境に追い込まれている配本システムはもう一つある。見計らい配本だ。

 

段ボールを開けると、頼んでもいない本が入っている。根拠なく特定の国を否定するヘイト本、何年も前に出て誰もが興味を失っている本…売りたくない本、売れない本であっても、書店はすぐに入金しなければならない。

 

2005年、ヘイト本ブームが巻き起こったとき、私は大阪府堺市の書店でアルバイトをする大学生だった。いくつかの本屋でヘイト本特集がされているのを見た。「この書店の経営者は、こういう思想の持主なのだな」と思った。

書店でアルバイトしていても、見計らい配本という言葉を聞いたことがなく、そんな誤解をしていた。経営のために、売りたくない本を置いている本屋もあることを、『13坪の本屋の奇跡』を読んで初めて知った。

 

この書評を書く前に、わたしは実際に隆祥館書店を訪れた。

 二村さんは毎週届くというトーハン(取次店)週報を開き、説明してくれた。週報には本の概要が掲載されていた。いくつかの本は赤いペンで囲ってある。隆祥館書店が注文して送ってもらっている本だと言う。

 

どうやって、隆祥館書店は置く本を選べるようになったのか詳細を知りたい。

そう言う私に対し、二村さんは口頭でわかりやすく説明してくれた。

「根拠のなく特定の国を批判するヘイト本を置きたくないと、取次の方の前で声をあげました。その後、隆祥館書店にはヘイト本が届かなくなりましたが、他の同じような規模の書店さんの話を聞くと、未だに見計らい配本でヘイト本が届いているようですね。

声をあげるかあげないか、それも重要なのですが、小規模書店は経営が常に苦しく、見計らい配本で届いた本を書店に置かざるをえないのです」

経営のための、苦渋の選択だ。

 

隆祥館書店も、存続のため、新たな試みをする必要があった。

二村さんは「著者を囲む会」を始めた。彼女がイベント開催にあたって心がけていたことが、『13坪の本屋の奇跡』で、木村元彦によって記されている。

(二村は)単なる客寄せのプロモーションイベントにしないことを心掛けた。(中略)薦められると思ったものはどんなに無名の作家のものでも根気良く紹介したし、逆にリクエストがあれば、(中略)面識が無くても直接手紙を書いて実現させた。

結果、「著者を囲む会」は、著者からも来場者からも好評を得た。現在、その回数は200回を超えている。

 

実際に二村さんにこのイベントが収益につながっているのか私は聞いてみた。二村さんは、来場者が30人集まれば、1人1冊、必ずその著者の本を買ってもらうことにしているそうだ。そうすれば、一晩でその本は30冊売れる。

 

それでも、経営に余裕があるとは言い難い。ふだんは本屋でお客さんにぴったりの本を薦め、レジを打ち、書店経営者としての役目を十分に果たしている二村さん。しかも隆祥館書店の定休日は少ない。

「著者を囲む会」で進行役を務めることの多い二村さんは、寝る間を削り、登壇する著者の本を消化しきるまで再読しているそうだ。

 

忙殺されていても、二村さんには知りたいことがあった。

「他の国の配本システムはどうなっているのか」

なんとか時間を捻出し、ヨーロッパへ向かった。

 

二村さんは、「ドイツの本屋はとても良いんですよ」と私に話してくれた。

ドイツでは、発売前の本のプルーフ(見本)を町の本屋の経営者たちが読み、自分の意志で置きたい本を選ぶそうだ。

ドイツの本屋は、すでに経営者が自ら本を選んでいるのである。

二村さんは、「日本もそうなれば良いのに」と言った。今の日本の本屋は、個性を持ちたくても、持てない。

どの本屋に行っても同じ本が並べられ、「それなら配送料も無料だし、インターネット書店で買おう」と、お客さんたちは本屋から離れていく。

 

ヨーロッパは日本と異なる動きを見せ続け、町の本屋の存続を国が支援している。

ドイツだけではない。

2014年、フランスで反アマゾン法が可決されたのも画期的だった。

 

ハフポストによると、反アマゾン法とは、アマゾンなどのオンライン書店が値引きした商品を、無料配送することを禁じる法律である。

フランスの町には、何百年も前からの国の文化が、今も残っている。建物の高さや色に制限があり、建築物の外観を重視する。文化を守るための努力を惜しまない。

町の本屋を守るために、国が動く姿からも、フランスらしさが表れている。

 

日本はどうしてドイツやフランスのようにならないのだろうか。

 本棚に並べられた中から、一冊を選ぶ。その楽しさを、配本システムやインターネット無料配送のせいで、利用者が味わえない。

自分にぴったりの本を勧めてくれる隆祥館書店のような本屋さんがあることも、ほとんどの人は知らない。

 

 

『13坪の本屋の奇跡』の中で、二村さんが指針にしている言葉が出てきた。

二村さんは、シンクロナイズドスイミングの元日本代表だった。当時のコーチは、メディアでも有名な井村雅代さんだ。

井村さんは、二村さんに「敵は己の妥協にあり」という言葉を教えた。

 

配本システム、増税による出版不況、店舗の規模による返金の時期の違い…小規模書店を追いつめていく様々な背景が本書では描かれているが、二村さんは、井村さんから学んだことに支えられ続けた。

2013年4月には、「井村雅代さんを囲む会」も実現した。『13坪の本屋の奇跡』に実際にイベントで行われた対話が収録されていて、井村さんの熱い想いを知ることができる。

『13坪の本屋の奇跡』で、個人的にいちばん好きな章だ。井村さんの話は、見事に二村さんの「今」に繋がっていると感じた。

 

隆祥館書店で二村さんから話を聞いた後、私は本をおすすめしてほしいとお願いした。

「今の目標や、こうなってほしいと思っていることはありますか?」

二村さんの質問に対し、私は答えた。

 「努力がださいと言う人もいるけど、私は努力する人が報われる世の中になってほしい。私は努力して、自分の夢を叶えたい」

私の言葉を聞いた二村さんは三つの書籍をおすすめしてくれた。

 

その中に、坂本敏夫さんが執筆した『典獄と934人のメロス』があった。

『13坪の本屋の奇跡』で、「初版6000部のこの小説」を二村さんが「ひとりで500部売り切った」と書かれていた。

内容は下記のとおりである。

関東大震災の際、囚人が逃走して罪を犯しているというフェイクニュースが出回った。実際は、全員が戻っていたという事実を、綿密な取材を重ね、「人間の「信」に焦点をあてた」大作である。(「」は『13坪の本屋の奇跡』より引用)

『13坪の本屋の奇跡』で知り、ライターの友人にも勧められていた本だった。探し回っていたが、隆祥館書店で初めて見つけた。二村さんは「外国人に日本語を教えている、若林さん(わたし)にとっても、おすすめの本ですよ」と紹介してくれた。

 

二村さんは緑が好きだと言う。隆祥館書店のブックカバーも、薄い緑だった。

二村さんは丁寧に折り目をつけ、私が買った3冊の本にブックカバーをつけてくれた。

本を愛しく想い、買ってくれるお客さんを大切にしていることがわかるブックカバーのつけ方だった。

 

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目の前にいる人は、間違いなく『13坪の本屋の奇跡』で、奇跡を作った人なのだ。レジの前で、ふつふつと実感がわいてきた。

 

いつか、町の本屋に列をなす、子どもたちの姿を見たい。丁寧にブックカバーをつけてもらい、笑顔で本屋から駆け出す子どもたちの姿。

『13坪の本屋の奇跡』

この本と隆祥館書店を、次はだれに薦めようかと思いながら、私は隆祥館書店のある谷町六丁目を後にした。