ものを書く日々

企画から取材、執筆までやるライターわかりお。このブログでは書評中心に書いていきます。

「正義」の不確かさ ~手塚治虫『アドルフに告ぐ』を再読して

初めて読んだ15年くらい前は、自分の信じていた「正義」が手からすべり落ちていく感覚を中盤で味わった。

 

今回、再読し、その感覚が「感触」と言えるほど生々しいものになった。

それを味わったのは初めて読んだときと違い終盤だった。

 

 

新装版 アドルフに告ぐ (1) (文春文庫)

新装版 アドルフに告ぐ (1) (文春文庫)

 

 

3人のアドルフのうちのひとりは言わずと知れたヒトラー

そのヒトラーが「実はユダヤ人だった」という仮説が、フィクションのキャラクターである他のふたりのアドルフの運命を変えていく。

 

アドルフ・カウフマンは日独ハーフの少年。

アドルフ・カミルはユダヤ人で両親が日本でパン屋を営んでいる。

 

幼い頃のふたりは固い友情で結ばれている。

特に繊細でいじめられっ子のカウフマンはピュアで見た目も中身もとてもかわいらしい。

一方、ドイツでは既にヒトラーが台頭していて、ふたりの背後には大人たちの思惑や不穏な歴史の前触れがたちこめている。

 

カウフマンはカミルを守るため、いやいやドイツに送られヒトラーユーゲントに入る。

「正義は何か」は生まれながらにしてはっきりとしているものではない。教育によって養われる潜在意識に等しい。

幼いカウフマンはみるみるナチスの考え方に染められ、その優秀さでヒトラーにも認められるようになっていく。

 

最初に読んだ頃はわたしも子供だったので、「正義とは何か」は「教育によって変わる」というのが大きな気づきだった。

その気づきを得た後は、その後の展開が重苦しくて、つらくてたまらなかった。

 

再読したとき、わたしが目を見張ったのはカウフマンではなく親友のカミルの変化だった。

 

※ここから、少しネタバレになります※

 

カミルの存在は最終章を迎えるまで「正義」である。

カウフマンと友情を結び、恋をし、カウフマンに恋人をレイプされ激怒し、戦時下の日本で虐げられても、その「正義」は揺らがない。

 

親友カウフマンの裏切りにより激怒し絶交するのも当然のことだし、読者もカミルよりカウフマンの心情や考え方の変化の方に目を奪われる。

 

※※ここから、完全にネタバレになります※※

 

ところが、終章、イスラエルに渡ったカミルは、パレスチナ人を虐殺するユダヤ人側のリーダーになる。

無抵抗の一般市民(女性や子供を含む)を笑いながら虐殺するユダヤ兵の中尉として描かれているのである。

 

カミル=「正義」というイメージが一瞬にして破壊される。

 

カウフマンは

幼児期→ヒトラーユーゲントに入る→優秀なナチス隊員になる→ある出来事をきっかけに価値観が破壊される→イスラエルパレスチナ側につく

という流れが、本人視点で描かれている。

だからこそ読者もカウフマンに感情移入し同情してしまう。

 

うってかわって、カミル視点の描写は少ない。

「自分は日本人だと思っているけど、その日本も戦時下となってしまった」「自分の国がほしい」と恋人と語り合う場面があり、伏線だともとれる。

それを踏まえても終章でのパレスチナ人虐殺側に回るカミルの姿は唐突すぎた。

 

ユダヤ人で日本育ちのカミルにとっても、「正義」は置かれた状況によって変わる不確かなものなのだ。

すなわち、ドイツ人、ユダヤ人、日本人、だれにとってもそうなのだ。

 

狂言回し的な存在の峠という男性も『アドルフに告ぐ』では登場し、彼をヒーローのように見立てたアクションシーンもあるのだが、その峠も序盤、事情があったとはいえ「悪」とは言えない女性をレイプし、自殺に追い込んでいる。

 

「どこに正義があるのだろう」

「そもそも正義って確かなものなのだろうか」

 

 

答えの出ないそんな問いが読み終えた後残った。

 

重厚感を残す『アドルフに告ぐ』、手塚治虫、50代後半で描いたそうです。

天才ってほんとうにこの世に存在するんだな・・・。