集英社のアンソロジー『患者の事情』の作者は、筒井康隆、三島由紀夫、北杜夫、遠藤周作など堂々たる顔ぶれが並ぶ。病気や患者にまつわる短編小説集だ。
・山本文緒「彼女の冷蔵庫」
血のつながらない25歳の娘と35歳の継母。娘が骨折し入院したところから物語は始まる。二人の関係は冷ややかなものだったが、あることをきっかけに変化が訪れる。
娘の孤独感を理解できるのは恐らく主人公である継母だけだ。
きれいごとをあえて語るまいとする作者の表現の中に、読者はあたたかみを見出す。アンソロジーのはじまりにふさわしい一編。
・筒井康隆「顔面崩壊」
読者は突如としてSFの世界に放り込まれる。前置きなく、聞き手である主人公はわけのわからない老人から、宇宙にある他の星の話をされる。一歩間違えば、顔面崩壊する恐れのある恐ろしい星。老人はどのように顔面が崩壊するかまでことこまかに、筆者に語る。
ラストで味わう不条理さは、筒井康隆の小説の特徴だ。
筒井ワールドとは、別の意味での不条理な世界が目の前に広がる。
副業でやっていた、ウルトラマンに扮するバイトで、衣装とお面がとれなくなってしまった主人公の物語。深刻なはずなのだが設定が設定なので、読者にとって主人公はユーモラスにうつる。
ラストにたどりついた後は、また最初から読み返してみるのをおすすめする。
・北杜夫「買物」
精神疾患を扱った小説だが、世界観がどこかおかしい。読者が違和感を感じるのとほぼ同時に、患者よりもきわどい医師の異常性が描かれる。
中盤、物語はSF風になり、患者と医師はタイム・マシンを使い過去へ行く。未来を変えることである野望を叶えようとするが、ふたりには思わぬ事態が待ち受けていた。
最後の患者の一言に、物語のすべてが表れている。
・小松左京「くだんのはは」
戦時中の神戸。空襲で家が焼けてしまった少年は、昔雇っていた女中が務める邸宅に預けられる。女主人がとりしきる邸で、少年は恐ろしいものを目にする。時は巡り、少年は大人になるが…。
「くだん」とは何なのか、主人公を取り囲む世界は幻想なのか現実なのか。
ようやく気づいた時、読者はすでに薄暗い闇の中に放り込まれてしまっている。
・白石一郎「庖丁ざむらい」
ここからは時代劇ものが2作続く。1作目にあたる本編は、食にこだわり自ら料理をする一風変わった武士の物語。彼が、他の武士を招き入れ屋敷で食事をふりまったとき、食中毒が起こる。
全体を通し、主人公の武士の痛快とも言えるほどのマイペースさが描かれている。人の幸不幸は客観的には判断できないものなのだ。
・隆慶一郎「破行の剣」
時代もの2作目にして、この短編集で私がいちばん好きな小説だ。「庖丁ざむらい」と同じように主人公は武士だが、前作と異なり、シリアスな雰囲気がただよう。
時は戦国、将来有望な武士であった若き主人公は、戦で満身創痍となる。不運は続き理不尽な目にも遭うが、主人公は決して短絡的に物事を解決しようとはしない。運命にも抗わない。
本当の強さとは何なのか。作者の意図はわからないが、私は本作の主題はそれだと感じた。
・久坂部羊「シリコン」
生まれたときから不幸な目にばかり遭うヒロイン。それでも希望を失わず豊胸手術で人生を変えようとするが、まさかの手術失敗。その後、ようやく自分を救ってくれる医師に出会うが…。
何も悪いことをしていないヒロインを襲う運命に腹が立つかも知れない。しかし、さわやかな読後感が待っているので、耐えて最後まで読んで欲しい。。
・藤田宣水「特殊治療」
幻想的で不気味なホラー。患者を前に、医師は研修医時代の話をし始める。人と話すのが苦手な医師は、高嶺の花のような女医に恋をした。しかしその恋は思わぬ方向へ向かっていく。
「それはそれで幸せの一つ」と感じても良いし、気色の悪さに最後まで身震いしても良い。読む人によって悲劇にも喜劇にもなりうる小説。
・遠藤周作「共犯者」
夫にときめいたことが一度もないという主婦が主人公。胃の病気をした夫は入院し、ルックスの良い同僚が見舞いに来る。そこから主婦の歯車が狂い始める…と言うと昼ドラのような物語を予想してしまうが、作者が遠藤周作なのでもちろん陳腐な展開とは無縁である。
予定調和で事を運ばせないのは、さすが遠藤周作である。
・馳星周「長い夜」
日本で違法就労をしている、東南アジア出身の売春婦が重い病気にかかった。その面倒をいやいやながらも見てしまう日本人女性が主人公。
これは長編小説の一つの章だったのだろうか。序盤に起こることがすべて唐突で、漫才で言うところのツカミがうまくいっていないようにも感じられる。
内容を吟味すると、著者は社会風刺をしたかったのだということがわかるが、短編には適さない内容のように感じた。
・氷室冴子「病は気から」
ちょっとしたことで重い病気なのではないかと疑ってしまう心配性の主人公(恐らく著者)。
他の短編とは異なりギャグテイストの自伝的小説だ。
作者はもう亡くなっている。その事実を知った後読み返すと、感想がまったく異なるものになる。恐らく読者のみが味わう、作者も意図していなかった部分だろう。
・三島由紀夫「怪物」
この短編集はどうやって小説の順序を決めたのだろうか、と三島の「怪物」と読んでから改めて思った。氷室冴子の軽いタッチの自伝的小説から、三島の重厚感のある世界へ急に突入する。
若い頃から残虐で自己中心的だった主人公が老人となり倒れ、意思表示もできない状態になり介護される。恐らく周囲の人々に悪意はない。だが、主人公の考えや希望は伝わらず、因果応報という言葉では言い切れないほどの辛い目に遭う。だが今まで彼の残虐さを知っている読者は、同情できない。
「ほんとうに周囲の人たち、悪意がなかったのかな」
ふと疑問に感じ始めた終盤、突然物語は速度を増し唐突に幕がおりる。
読者の想像の余地を残す三島は、最後の一行が決まるまでは小説を書き始めない作家として知られている。すべては三島の中では、仕組まれていたことなのだ。
・渡辺淳一「薔薇連想」
解説で最も絶賛されている小説。梅毒に冒された美しい女性が、性行為によって周囲の男たちに感染させていく物語だ。
ロマンチシズムと女性への幻想が強い。男性の作者でしかこのヒロインは描けないだろう。
人によってどの小説が好きか変わってくるのがアンソロジーの面白さ。「患者」というテーマでここまで風味の異なる短編小説が味わえるとは思っていなかった。
読書会をして、皆さんに「あなたはどれが好みに合いましたか?」と聞いてみたい。