この映画の主題は「嘘」だ。
人を傷つけないためにつく嘘。だが、それはやさしさではなく自分の辛さをまぎらわしたいがためにつく嘘なのかも知れない。
『婚約者の友人』の舞台は第一次世界大戦後すぐのドイツとフランス。独仏間の国民感情、モノクロから何度かカラーに切り替わる独自の映像、結末の意味など、考察する要素がたくさんあり終わった後にしばらく考え込んでしまった。
自分なりの答えを見つけたので、ここに書きたい。
なお、監督のフランソワ・オゾンはエルンスト・ルビッチ監督の1932年の映画『私の殺した男』(原案はモウリス・ロスタンの舞台劇)から構想を得てこの映画を作ったらしい。しかし後半はまったく異なる展開とのことだ。
あらすじ
1919年、第一次世界大戦直後のドイツ。
戦争で息子フランツを亡くした老夫婦と、フランツの婚約者アンナは悲しみを癒し合うように仲良く暮らしていた。
ある日、アンナは見知らぬ青年がフランツの墓に花を手向けているのを目にする。
青年は老夫婦とアンナの住む家を訪れるが、戦争でフランス兵に息子を殺されたフランツの父(恐らく医師)は彼を患者だと誤解し「フランス人は診ない」と拒絶する。
一方、アンナは戦争が起こる前、フランツがフランス留学していた頃の友人なのではないかと考える。そのフランス人はアドリアンと名乗り、やがてアンナやフランツの両親とも打ち解けるようになったが、帰国する前日、ある真実をアンナに打ち明けた。
ショックを受けたアンナだったが、真実を夫婦に告げないまま帰国するアドリアンを見送る。
アンナがアドリアンに惹かれていることに気づいた夫婦は、アンナにフランスに行きフランツにもう一度会ってはどうかと勧める…。
第一次世界大戦とナチス政権のはざま
まずは史実から振り返ってみたい。
1914年、オーストリアの皇位継承者であるフランツ・フェルディナント大公夫婦が暗殺されるサラエボ事件が起こった。これにより史上初の世界規模の戦争が幕を開ける。
オーストリアには同盟国と呼ばれるドイツ、ブルガリアなどがついた。戦う相手は連合国と呼ばれるイギリス、フランス、日本などである。
主戦場はヨーロッパで7000万人以上が動員、戦闘員・非戦闘員含め1600万人以上が死亡した。この映画の原題(Frantz。ドイツ語読みはFranzが正しいが、フランス人がよくスペルミスをする人名であるため、オゾンはあえてこのタイトルにしたらしい)でありながら、名前と回想でのみ登場するヒロインの婚約者フランツも兵士として命を落とし、遺体は見つからずお墓のみが作られている。
第一次世界大戦はアメリカが連合国側についたことにより、1918年11月、連合国側が勝利する。
映画がスタートするのは第一次世界大戦の終戦から1年も経っていない頃なので、フランス人はドイツで、ドイツ人はフランスでそれぞれ辛い思いをする場面がある。
フランス人のアドリアンと仲良くなったフランツの父は、息子の生前の友人に会えたことで気分が明るくなり、バーで同年代の友人たちと久しぶりに会う。しかし彼がフラン人と仲良くなったという噂を聞いた友人たちは冷淡に接する。彼らもまた息子たちを戦争で失っていた。
アンナはフランスへの旅路で、車掌から「ドイツ人がフランスに何の御用で?」といぶかしがられ、パリで入ったカフェではフランスの軍人たちが国家を熱唱しているのを目にする。
この映画の後、ドイツもフランスも平和な日々はすぐに終わる。
ドイツがナチスの支配下に置かれたのは1933年、この物語の14年後だ。1939年にはイギリスとドイツの間で戦争がはじまり、第二次世界大戦へと繋がっていく。同じ年、ドイツ軍はフランスに入り、パリを含むフランス北部はナチスドイツの支配下に置かれた。
フランスにいたユダヤ人たちは強制収容所に送られ、1942年には1万3152人ものユダヤ人がパリやパリ郊外で検挙されたヴェル・ディヴ事件も起こっている。
このあたりのフランスとドイツの関係性については、『禁じられた遊び』(ルネ・クレマン監督)や『さよなら子供たち』(ルイ・マル監督)、『サラの鍵』(ジル・パケ=ブルネ監督)といった優れた映画でも知ることができる。1945年までナチスはフランスを苦しめ続け、解放後フランスはドイツ人の恋人になったフランス人女性たちを虐待した。
アドリアンはなぜドイツに来たのか
この映画は15年ほどしか続かなかった戦争のない時期の始めの頃である。中盤、川辺で「人が死ぬのはもうたくさんだ」とつぶやく年配の男がいるが、この後のことを思うと暗澹たる気持ちになる。
平和が戻ってきたとはいえドイツとフランスは常に緊迫状態にあった。前述したようにこの映画のところどころでそれがわかる。
そんな中、アドリアンはなぜフランスに来たのか。
ここからはネタバレを含みつつ考察したい。
前半の最後で明らかになる事実は、「普通の人間が戦争に巻き込まれる残酷さ」を表している。
罪悪感に耐え切れなくなったアドリアンは、雰囲気にのまれるまま嘘をつく。そして自分の嘘を正当化するかのように、アンナに真実を明かす。
それは、アドリアンだけではなくアンナを苦しませた。
中途半端だ。嘘をつかずドイツに行かないこともできたし、嘘をつくならどんなに苦しくても、戦争で大事な人を失った人を傷つけないためにつき通して欲しかった。
アドリアンさえ来なければ、アンナは静かな日常を過ごせていたのに。
アンナは苦悩しながらもアドリアンの嘘を知った後、老夫婦を傷つけないため、やさしい嘘をつく。同時にアドリアンにもフランツの両親には私から言ったと嘘をつく。
アドリアンからアンナへと、罪悪感に苛まれる人物が移り変わる。
モノクロとカラーの対比とフランツの両親
この映画のほとんどの場面はモノクロだ。しかしときどき、カラーになることがある。
恐らくアンナが亡き婚約者フランツを思い出しているときに、画面の色が変わるのだ。
これによって「この映画の主役はアンナである」という事実に私たちは行き着く。
後半を振り返ると、異様な点が増えてくる。
フランツの両親の善良さからつい見落としてしまいそうになるのだが、戦争が終わったばかりで、敵国だったフランスにドイツ人女性一人が旅するというのはかなり恐ろしいことだったのではないだろうか。
もしこれが逆の立場、アドリアンのように「フランス人が一人でドイツを…」だったら、すぐにわかるはずなのに、アンナが旅立つ前、フランツの両親もアンナもそれにまったく気づいていない。
「自分の家族がフランスに殺された」という苦しみの中では、「相手の家族が自分の国の兵士に殺された」という事実に思い至らないのだ。
だからこそ、フランスに向かうアンナに「いい旅を」と笑顔で手を振れる。アンナも嬉しそうにそれにこたえる。
直後にアンナは、フランスでは自分が異邦人であることを思い知る。
オゾン監督が映画後半に準備した数々の皮肉
それを皮切りに、オゾン監督らしい皮肉が加速する。
例えば回想や登場人物の言葉の中にしか登場しないフランツ。性格はそこまで強調して語られず、趣味がバイオリンだったということや戦場で敵国兵と向かい合う際の怯えた目しか私たち視聴者の記憶に残らない。
だがパリでフランツが滞在していた宿に泊まったアンナは驚く。そこは売春宿で、はたから見ても治安が良いとは言えない地区にあったのだ。
フランツにもアンナが知らない一面があった。嘘があった。
アドリアンをたずね歩いたあげく、アンナはパリを離れアドリアンの住まいにようやくたどり着く。彼は元貴族だったのかも知れない。大きな屋敷を所有し、庭は散歩できるほど広く乗馬を好んでいた。
アンナもアンナで貧しいわけではない。
だが、アンナがパリ周辺で目にした戦争から復興しようとする人々の様子からは考えられないほど、アドリアンは豊かだった。
その豊かさが、アドリアンの甘さ、心の弱さにも繋がっているのかも知れない。彼はアンナが自分に惹かれていることすら気づいていなかったのだ。
アドリアンが好きなマネの絵
アドリアンが「フランツが好きだった」と嘘をついたマネの絵。タイトルは「自殺」。
なぜあえてこの絵を指したのだろうか。私はこの仰向けに倒れる男性が、フランツに見えて仕方がない。
アンナが絵を見つめるラストシーンは、どんな考察もできる。
結末で絵の前にいた男性は、アドリアンと同じように戦争で傷ついた兵士だったのかも知れない。戦場とはいえ人を殺してしまい、アドリアンのような自己満足もできず、苦しんでいるのかも知れない。
アンナは自分の嘘の中で生きようと決めたのではないか。
当時のパリでドイツ人女性に自活の道があるのかはわからないが、アンナがフランツの両親への罪悪感を抱えたままドイツに帰るとは思えない。
嘘を真実だと思って生きるか、もしくは死ぬか…。
「幸せになって」とフランツもアドリアンもアンナに告げるが、二人とも自らの力ではそれを実現できなかった。そして登場人物の気づかないうちに、ドイツにはナチスの足音が忍び寄っている。フランスに残ってもドイツに帰っても、これからのアンナに幸せが訪れる可能性は低い。
アンナの嘘の手紙を読んで満面の笑顔で喜ぶフランツの両親が救いだった。彼らが真実を知ることは一生ないだろう。
フランス人のレビューを読むと
アンナに扮した女優パウラ・ベーア含めこの映画に登場する人物はドイツ人が多い。とはいえ監督のオゾンがフランス人であり、私もフランス語であれば少しわかるため、フランスのレビューサイトでフランスの人たちはどのような感想を綴ったのか調べてみた。
(いくつかピックアップして要約し日本語訳しています)
「よくよく考えてみると、(監督が)白黒で撮影したいと思ったのは、芸術のためというよりも低予算にするためだとわかった。実際、昔のフランスやドイツのセットだけでもお金がかかる。(中略)主人公のアンナは、私たちの「赦し」(キリスト教の「汝の敵を赦せ」という教えのことかと思います)と「勇気」の概念を揺さぶる」(ALLOCINÉ)
「フランソワ・オゾンは、アンナとアドリアンの心のすれ違い、特に嘘と嘘を正当化することを見事に演出している。戦争によるトラウマを描いている映画でもあるが(中略)私たちを驚愕させるまでには至っていない」(ALLOCINÉ)
「この映画が最初から焦点をあてているのは、(戦争における)女性だ。最後、アンナは自由な女性になる。悲しみから解放されたアンナの夢でこの映画は幕を閉じる。見知らぬ人の隣に自由に座り、自分を悩ませたマネの絵画”自殺”を見て深く考え、戦争の敗北とは無関係な自分の若さを感じ満喫する」(Critikat)
なるほど、「アンナの解放」の映画と受け取ることもできるのか。フランスにおいても意外なことにその後の第二次世界大戦について触れられているレビューはあまりなかった。
結末に見出すのは、不穏さか希望か…国籍を問わず、その答えは視聴者にゆだねられる。
これは本当に当時のドイツ?
1点だけ疑問に思った点がある。
主人公のアンナは田舎町とはいえ夜に出歩き、婚約者や夫でもない男性とダンスし、フランスを一人で旅する。それが1920年前後のドイツで可能だったのだろうか?
ミュージカルにもなった1983年の戯曲『春の目覚め』(フランク・ヴェーデキント著)や1913年のドイツの田舎を舞台にしたミヒャエル・ハネケ監督の映画『白いリボン』では、グロテスクなまでに抑圧された当時のドイツの姿があった。
田舎か都会かという違いもあるのかも知れないが、日本も当時は大正時代、きょうだいであっても未婚の女性が男性と出歩くのははしたないと言われていた頃である。
ただドイツについての歴史はそこまで詳しくないので、地方差もあるのかも知れない。それにしても現代的すぎるような気がして、少し残念だった。