イタリア敗戦後の暗さを残す『若者のすべて』は、ルキノ・ヴィスコンティの代表的な監督作品の一つだ。主演は社会現象になる直前のアラン・ドロン。
働き手の父が既にいないことから「おそ松さん」のようなニートにもなれなかった若い5人兄弟と、彼らを溺愛しその将来に期待をかける母ちゃん、ファム・ファタ―ル(運命の女)と言うにはあまりにも理不尽な目に遭うヒロインを軸に物語が進む。
(C)Marceau-Cocinor
舞台はミラノだが、私たちが観光地として知っているおしゃれなミラノが見られる場面はほんの少ししかない。
最初は同じような性格に見えた5人兄弟は、物語が進むにつれて個性が表れていく。
私の独断と偏見で、母ちゃんと5人兄弟で「クズofクズ」をつけ、誰がこの物語を悲劇にしたのか考えてみようと思う。
長男に養ってもらう気満々で、息子たちの幸せを願いミラノに来る5人兄弟の母ちゃんロザリア。
母や弟たちより前にミラノにいて、家族に報告しないまま彼女と婚約パーティーを開いていた元ボクサーの長男ヴィンツェンツォ。(恐らく20代前半から半ば)
ボクシングで才能を見込まれるが、娼婦に夢中になり堕落する次男シモーネ。(20代前半)
心が清らかすぎるがゆえに、自ら望んで次兄に運命を狂わされる三男ロッコ。(主役で演じるのはアラン・ドロン)(20歳前後)
勤勉で、後半ではアルファロメオの技術者となり、現実的に物事を見つめられる四男チーロ。(10代後半)
まだ子供で、兄たちの愚かなふるまいを「愚か」とも感じられない五男ルーカ。(10歳くらい)
この中にクズが四人います!
- 選考外① 無垢であるがゆえに
- 選考外② 彼がいなかったら物語はもっと悲惨になってた
- 4位 いくら結婚したからって…
- 3位 よく考えると元凶だった
- 2位 どれだけお兄ちゃん好きなんだ
- 1位 これはもう満場一致でしょう
- 次男を待ち受けるのは?
選考外① 無垢であるがゆえに
さっそく審査員(私)の選考からもれたのは、末っ子の五男ルーカである。
まだ小学校に通う年齢のように見受けられるのに、貧しさから自転車をこいで食料配達のバイトをし、途中で兄に会いに行ったりもしている。
その健気さは母や兄たちにも伝わっていて、全員ルーカと接するときはやさしい。
ルーカは戦争映画やホラー映画の少年少女のように途中で豹変…することもなく、あくまでこの物語のかやの外にいる。
せっかく登場させたのだから、ルーカにナレーションをさせたら良かったのではないかと思うくらい、本筋とはほとんど絡まないのが特徴的だ。
演じるのはロッコ・ヴィドラッツィ。この後日本ではまったく名前を知られない存在になる。
生きていたら若くても70歳くらいか。ルーカはいずれミラノを離れ故郷に戻るかも知れないことを予感させる結末だったが、演じた本人はその後どんな人生を送ったのだろうか。
選考外② 彼がいなかったら物語はもっと悲惨になってた
私を含めた視聴者は四男チーロに感情移入して見ていたのではないだろうか。
『若者のすべて』の5人兄弟で唯一の常識人だ。しかも勤勉で、肉体労働が終わった後家族全員が寝泊まりする部屋で一人こつこつと勉強し、大企業アルファロメオの技術者になる。
彼が存在感を増すのはその後だ。非常識すぎる家族に対してである。
母ちゃんと兄たち…特に次男と三男のあまりに異常なふるまい。チーロは常識的なのになぜか助言を受け入れてもらえず、正しいことをしようとしても止められる。だが自らの意志を持ち行動する。
「次男が家庭をぶち壊す」と予感していたのも彼だけだ。
「ルーカを守らなければ」と、本当なら自分も兄たちに甘えてもいい年頃なのに弟のことを考えている。自立心もある。そして息子たちに依存する母のことも見捨てない。
後半でチーロの彼女が出てくる。この子は末っ子のルーカにどこか似ていて、無邪気で可愛く、チーロのことが好きで仕方ない。後から振り返るに、この物語でほっとできるのはチーロとその彼女の場面だけだった。
クズ兄たちは「チーロ様」と呼んでもっと感謝するべきである。
4位 いくら結婚したからって…
この映画で存在感が薄いのは長男ヴィンチェンツォと五男ルーカだ。とはいえルーカは子どもなので仕方ない。
問題はヴィンチェンツォ、兄弟でいちばん年上のはずなのに頼りないこの男だ。
まず母と弟たちがミラノに来ることは手紙で知っていたのに迎えに来ない。同じ日に婚約者ジネッタの家族とパーティーを開いている。
結局、訪れた5人兄弟の母ちゃんVS婚約者の家族で言い争いが起こり、ヴィンチェンツォはいったん母ちゃん&弟たちと貧困者用のアパートに住み始める。二か月後、家賃を滞納すれば滞納した人向けの住まいを与えられるらしい。
よくわからない当時のミラノのシステムだが、当時はまだ敗戦後の辛さに国民は直面している。戦後の貧困層へ向けた救済措置だろう。
母ちゃんはヴィンチェンツォに会うなり「お前、結婚なんかしてそれで私と弟たちを養えるのかい?」と毒親っぷりを発揮したが、この母ちゃんはムッソリーニ政権下のイタリアで必死で育ちざかりの息子たちを育てたはずだ。そのくらい言う権利はあるのかも知れない。
ヴィンチェンツォは結局ジネッタと結婚し家を出る。この母ちゃんのことだから「長男だからお前が家族を食わせるんだ」と子供の頃から言われ続け、よほどいやだったのかも知れない。自立心の強い妻ジネッタと核家庭を築き、大家族から「一抜け」するのだ。
それはまあいいとしよう。彼のクズっぷりは終盤に出る。殺人事件を起こした次男シモーネのことで家中が大騒ぎになっている中、家の中にいるのに彼はシモーネに近寄るのを三男ロッコと母ちゃんにまかせている。騒ぎの中で通報するのは四男チーロ、チーロが通報したことを他の家族に伝えるのは五男ルーカだ。
いや、ここで存在感見せろよ!
と思ったが、ヴィンツェンチオは「もうこいつらはおれの家族じゃない」という認識なのかも知れない。
また、シモーネが膨大な金を盗み多額の借金が発覚したとき、ルーカ以外の兄弟たちが集められたのだが「いや、おれ妻子いるし払えないし無理だし」と真っ先に言うのも長男であるこいつだ。
無理なのはわかるが、結局それで三男ロッコが大嫌いなボクシングの仕事を10年する契約を結ぶことでお金を借り、すべてを背負うことになるのである。
ロッコを案じて「もうシモーネ兄さんのことは放っておけよ」と言う冷静な四男チーロに対しても、「チーロ、ロッコは一度決めたら考えを崩さない男だ…」と偉そうに言う。
長兄であるヴィンチェンツォがロッコをはったおし、「弟のお前はそんなことしなくていい!」と怒鳴り、「盗んだのはおれの弟シモーネだ!通報して捕まえてくれ」と言えば後の運命は変わったのではないか。
あの場でそれができるのは四男のチーロではなく、長男のあんただったよ…
あとこれは私の独断と偏見だが、ヴィンチェンツォは存在感が薄くて役に立たないのに妻ジレッタは凄い美女だった。演じたのはクラウディア・カルディナーレ、イタリアの大女優だ。出番が少ないのに彼女がアップになる場面も多いし、クラウディアがヒロインになってもおかしくなかったのではないだろうか。
ともあれ長男は蚊帳の外にいたおかげで、間接的に次男の不始末を三男と四男に押し付けた。まあ次男と関わらない方がいいという判断は正しかったね。
3位 よく考えると元凶だった
3位は母ちゃんロザリアである。前述した「長男だから私と弟たちを養え」という台詞もそうだが、都会で自分も息子も幸せになれると何の保証もなく信じ、ミラノに来たのも、息子たちがボクサーになることに夢を託しボクシングジムへ行かせたのも、もとはと言えばこの母ちゃんである。
で、いざ息子たちが働き始めると当然のようにたかる。当時のイタリアの感覚では当たり前のことだったのかも知れないが、母ちゃんはロッコが兵役で稼いだお金を要求し、ロッコがすっからかんになるシーンがある。
それなのに長男ヴィンツェンチオが結婚したことは後半で孫が生まれるまで不満だったようで、映画には描かれていないが女目線で見ると嫁姑の仲は最悪だったと思う。
堕落した次男シモーネには甘く、シモーネが帰宅してくれるからという理由だけでシモーネの女ナディアを家に居つかせる。その頃にはロッコは家を出ていたが、若い弟たちチーロとルーカもいるのに。
ちなみにシモーネの女と言ってしまったが、このナディアという女性は本作のヒロインである。
序盤で客の一人としてシモーネに接するが、彼のことはなんとも思っていない。ロッコの純粋さに触れた後愛し合うようになり、一時はロッコのために娼婦をやめてタイピングの学校に通ったりもしていた。
そして視点をナディアの昔の客だったシモーネに変えると、自分が堕落したきっかけは娼婦時代のナディアに溺れたことにあった。
シモーネは自分の女を弟ロッコに奪われたと激怒し、事もあろうにロッコの目の前でナディアをレイプ、ロッコは愛する彼女より兄を心配してナディアと別れる。その後、自暴自棄になったナディアは娼婦と戻り、愛してもいないシモーネと再び一緒にいるようになったのだ。
5人兄弟の母ちゃんはもちろんそんなことは知らないので、「大事な息子がこの女のせいで」と心の奥ではナディアを憎んでいる。
だからシモーネがナディアを惨殺したときも、ナディアには同情せず息子シモーネをかばおうとするのだ。
イタリアの母ちゃんは息子を溺愛するとは聞いていたが、これには絶句した。
2位 どれだけお兄ちゃん好きなんだ
本作公開と同年、アラン・ドロンはフランスきっての名作映画『太陽がいっぱい』に出演した。富裕層の男(モーリス・ロネ。『死刑台のエレベーター』の主役である)を殺し、のし上がろうとする貧困層出身の男が、アラン・ドロンの美しさと野性が共存した個性にはまり、日本でもアラン・ドロンブームが巻き起こった。
1956年生まれの私の母はこのとき4歳だったはずで、洋画をほとんど見ない人だ。そんな母でも知っているほどのイケメン大俳優アラン・ドロン。本作と『太陽がいっぱい』の役柄の共通点は、「貧しい生まれと育ち」ぐらいで本作のロッコはとことん聖人として描かれる。
前半、次兄シモーネが自分の働く店の女店長のブローチを盗んだと知ってから、ロッコのシモーネに翻弄される人生は始まる。彼はシモーネを責めず、店を辞め兵役へ行く。兵役が終わった後、ボクサーとしてのやる気を既になくしたシモーネが試合中にすぐにリタイアしたとき、スポンサーから「このツケは弟のお前に払ってもらう」と言われ大嫌いなボクシングを始める。
ここまでは「なんて心の清らかな人なんや…」と感激できたのだが、問題はその後である。愛し合っていた彼女ナディアが目の前でシモーネにレイプされ、さすがにシモーネとロッコで殴り合いのケンカをした。「やっと兄離れしてナディアを慰める立場になるのね」と思っていた私は、直後に裏切られた。
【速報】ロッコ、彼女をレイプ犯に譲る。
しかも「ぼくらはもう会わないようにしよう。シモーネとよりを戻して。兄を慰められるのは君だけなんだ」とかひど過ぎる言葉を被害者のナディアに放つのだ。
目が点になる。今なら監督のヴィスコンティSNSで炎上してたで。
好きな男の前でレイプされ、それが原因で好きな男から自分とは別れレイプ犯と付き合えと勧められる地獄。
愛するロッコのためにちゃんとした仕事に就こうとタイピングの学校に通い、娼婦の仕事も辞めたナディア。彼女が絶望し泣き叫ぶのは当然だ。
その後自暴自棄になったナディアは娼婦に戻り、もともと好きでもないシモーネとよりを戻す。
ロッコはここでクソ野郎になった。クズランキング1位と2位、選ぶのに迷ったぐらいだ。
シモーネがナディアを家に連れて来る前に、ロッコは身を引くため家を出る。彼は大嫌いなボクシングでチャンピオンになっていた。
追い打ちをかけるように、ナディアに振られたくないシモーネは盗難、借金などをし、前述した流れで今後10年、ロッコはシモーネの借金返済のため、いやいやボクシングを続けなければならなくなった。
チャンピオンになった後、ロッコは泣く。無意識のうちに次兄を憎み、その憎しみを相手にぶつける自分に嫌気がさしたのだ。
で、案の定、反省もせずチンピラとつるむシモーネは破滅への道を突っ走る。さんざん貢いだナディアが自分以外の男とも売春していると知り、彼女を惨殺するのだ。
それをシモーネから打ち明けられたとき、ロッコは叫ぶ。続けてこう言う。
「おれのせいだ。おれが全部悪い」
もはや視聴者の私は冷静である。呆れて何も言えない。
むしろその言葉を肯定したい。ナディアが死んだ遠因は確かにロッコなのだから。レイプ事件の後、ナディアと駆け落ちするなり、レイプ犯として兄を通報するなりすれば良かったのだ。本当に彼女を愛していたのなら。
しかしロッコが心配していたのはナディアよりシモーネのことだった。
え、どこまでお兄ちゃん好きなの?
いいとこなしのシモーネだし、薄気味悪くなるレベルだ。ロッコはシモーネの殺人罪まで隠そうとする。
哀れなナディアより、アホすぎる兄シモーネの方がそんなに大事だったのかよあんた。アラン・ドロンが超絶美形でなければロッコという人物は批判の嵐だったはずだ。
1位 これはもう満場一致でしょう
三男ロッコは次男シモーネを甘やかし、四男チーロは冷静だった。
だが、二人ともこう言うのだ。「シモーネはもともと善人だった」
本作唯一の欠点は、シモーネが善人だった頃のエピソードを描かなかったことだ。シモーネは凡人でちょっとした誘惑で堕落し、映画史上最低とも言われるほどクズを極めていく…としか思えなかったのである。
シモーネは都会に出て初めて会った、お金があれば手を出せる美女ナディアにはまった。
アルコール中毒と一緒だ。
ナディア中毒になったのだ。
シモーネはすぐ上の兄ともルーカ以外の弟2人ともそんなに年が離れていない。兄は都会に出てボクサーとして一瞬とはいえ成功し、美女と結婚して子供を授かった。
上の弟は実は自分よりボクサーの才能があり、どんなに愛しても愛し返してくれなかったナディアと心から愛し合っていたのに自分にナディアを譲った。つまり常に自分の上をいく存在である。
真ん中の弟も自分には無理だった血のにじむような努力ができる男で、大企業の技術者になれた。
上の弟ロッコは身を賭して自分をかばう。それに甘えながらもシモーネは悔しかったのではないか。そして下の弟チーロには軽蔑され、「金はやるから二度と家に入るな」とまで言われてしまう。
当然のことだが、シモーネは金輪際弟たちの誰にも尊敬されない。ボクサーとしても落ち目である。
末の弟ルーカを抱きしめるシーンは、せめて無垢なルーカには理解してほしいという気持ちがあったのだろう。あまりにも子供じみた感情で、チーロはシモーネからルーカを引き離す。まあ当然である。
ロッコがシモーネの犯した罪を隠し自分を犠牲にしなければ。「もともと善人だった」シモーネがあそこまで堕落することはなかっただろう。冷静なチーロだけがそれをわかっていた。
ただ、それにしても…好きな男の目の前でレイプすることによりナディアの唯一の希望を奪い、最後「死にたくない」と叫ぶナディアをめった刺しにして苦しませながら殺すシーンは弁解の余地がない。
これで「弟がかばい続けたから」は、ない。世の中には「人を殺せる人、人を殺せない人」がもともといるという説がある。シモーネは「人を殺せる人」であり、殺人という重大な罪を犯してもなお家族に助けを求め、唯一の味方である弟ロッコに金をせびる。
できればこんな奴、二度と刑務所から出て欲しくない。そう思い、1960年のイタリアの司法を調べてみた。
次男を待ち受けるのは?
イタリアの最後の死刑執行は1949年だそうだ。現在は死刑が廃止されている。というわけで、シモーネは死刑にならない。
それでは死刑の次に重い終身刑はどうかと言うと、これは判決が下されてもその前に釈放される囚人がほとんどだそうだ。
そしてシモーネの場合、計画殺人ではなく殺したのも一人。なので懲役刑が妥当だと思われる。
婦女暴行罪やら盗難罪やらもあるが、婦女暴行に関してはロッコしか知らない。ロッコは隠すだろう。盗難罪はチーロが告発するかも知れない。
すべての罪をトータルして、1960年当時のイギリスの懲役刑は何年くらいなのか、素人調べではなかなかわからない。刑務所の中の生活は、過酷なものだとは思うが。
恐らく生涯を閉じる前に刑務所から出てくるシモーネ。ロッコはまた兄を助けてしまうのか。孤独なナディアの死はどう償われるのか。
いろいろと考えてしまった。
映画紹介文には「格差を描いた映画」とあった。しかしそうは思えない。むしろ家族の依存関係の怖さを描いた映画だと思う。
私によって「クズofクズ」に選ばれたシモーネ。
扮したのは演技派の名優レナート・サルヴァトーリで、映画公開2年後にナディア役のアニー・ジラルトと結婚、1988年にレナートが亡くなるまで一緒だった。
実生活はハッピーエンドを迎えたようで良かった。