文は人なり

フリーライターの若林理央です。ダ・ヴィンチニュースや好書好日で執筆中。小説や映画について語るブログです。エッセイ→note.mu/wakario Twitter→https://twitter.com/momojaponaise

読者の思い込みがひっくりかえる瞬間 『悪いものが、来ませんように』芹沢央

違和感は最初からあった。

 

主人公たちの名前からしてそうだ。

同年代の友人であるはずなのに、古風な印象のある「奈津子」、可愛い漢字をあてられた「紗英」。

紗英は30歳くらい。

人にもよるがまだ白髪の目立つ年齢ではない。それなのに白髪を気にする奈津子。

夜勤明けに必ず、専業主婦の奈津子に電話する紗英も不思議だ。

子供のいない紗英に無神経なほど「子どもはいたほうがいいよ」と奈津子は言う。その進言を気にしながらも紗英は奈津子と絶交しない。

 

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物語は途中で何度も二人の関係者の証言を挟む。

どうやら奈津子と紗英のどちらか、もしくは両方が人を殺したようなのだ。

一人の証言が終わると、殺人事件の前の奈津子、もしくは紗英視点の文章にすぐ戻る。その繰り返しだ。

行きつ戻りつ、読者は少し混乱しながらも、だんだんとこの小説は犯人を解き明かすタイプのミステリーではないことに気づく。

 

紗英の妹で、彼女と同じ職場で働く助産師の鞠絵の登場により、奈津子と紗英の関係性の異様さはより際立ってくる。

鞠絵はしっかり者で仕事も器用にこなす女性だ。助産師の資格のない紗英をスタッフとして職場に紹介したのも鞠絵のようだ。

だが鞠絵は、奈津子と紗英の密着した関係性をあまりよく思っていないようだ。

 

奇妙さがはっきりしたのは中盤だ。紗英、鞠絵、奈津子と幼稚園児の梨里が一緒に食事をするためファミレスに行く。

幼い梨里は騒いで奈津子に叱られ、泣き始める。即座に席を離れた鞠絵を、姉である紗英は無責任だと思う。

「おうえあん」

梨里はまだ幼児だ。泣いているのもあり、言葉がはっきりと言えない。

鞠絵は梨里のためにおもちゃを買ってきて、彼女を慰める。職場では毅然とした態度をとる鞠絵の思わぬ一面だ。

紗英は「せっかくなっちゃん(奈津子)が躾を覚えさせようとしていたのに」と鞠絵にいらだつ。

紗英は、鞠絵の梨里に対する態度にことごとく過剰反応するのだ。

 

読者の違和感はこのあたりから膨らんでいくだろう。

奈津子や紗英の関係者の証言が増えるにつれて、二人の性格が浮き彫りになるはずなのだが、何かがおかしい。

関係者の語る二人の性格は、人によってばらばらなのだ。

本当に同じ人間について話しているのだろうかと疑問に感じる内容もある。

奈津子の母の証言もあるが、紗英の母の証言はない。紗英と母親は紗英の結婚前の顔合わせでお揃いのワンピースを着てくるほど仲が良いことが判明しているのにも関わらずだ。

 

なぜか。

 

殺人事件のあった日、奈津子は紗英のために料理の具材を買い、紗英と夫の家をのぞき見して会話を聞く。

奈津子は紗英の家の合鍵を持っている。紗英が出て行ったあと、家に入り紗英の夫に会う。

友達として度を超えている。ここで奈津子をおぞましく感じた読者も多いだろう。

殺人事件は終わり、誰が誰を殺したのかもはっきりする。

 

本当の謎解きはここから始まる。

 

 

ーーーここからネタバレあり。結末に触れますーーー

 

 

奈津子は梨里ひとりを育てている。ところが後半で「娘たち」と複数形を使う場面が出てくる。

奈津子には梨里以外にも娘がいるのだろうか。

 

また、前半に気になるくだりがあった。

ファミレスで梨里が言った「おうえあん」。

あれはたぶん「お母さん」だ。鞠絵が席を離れたとたん、梨里はそう言った。

梨里の母は、本当に奈津子なのか。

 

奈津子と梨里が親子でないのなら、奈津子と紗英の関係がただの友人ではないこともありうる。

紗英の夫は不倫をしていて、紗英はそれを知りながら不妊治療をしている。不倫する男となんて別れたらいいのにと思いながら、奈津子は紗英が心配で仕方ない。

私の、かわいい紗英

この「かわいい」が「可愛い」ではなくひらがなで書かれているのが妙に心に残った。

奈津子は紗英に恋愛感情に等しい感情を抱いているのではないか。

 

そんな推測も、物語が残り5分の1ほどになったとき、あっけなく無に返る。

奈津子と紗英、二人の関係が明らかになるのだ。

 

 

紗英は味方の誰もいない孤独な未来を予知しながらも、終盤で大きな決断をして成長する。

精神的な意味で彼女は巣立つ。

 

この小説は「後味が悪い小説」と言う人も多いようだ。

奈津子は「この子に悪いものが、来ませんように」と願いながら娘を育てた。その願いが砕かれたからというのもあるだろう。

 

しかし娘にとって母の願いは呪縛だった。母を愛しているからこそ逃れられないものだった。

 

 

 

『悪いものが、来ませんように』は、母と娘を描いた物語だ。

娘が母の愛から羽ばたいていく物語なのだ。

とはいえ、その先にあるのは深い闇である。

 

読み終えてから再び再読してほしい。

物語の色彩がすべて変わって見えるはずだ。

 

 

悪いものが、来ませんように (角川文庫)

悪いものが、来ませんように (角川文庫)